豊臣秀吉が朝鮮出兵のため築いた「勝本城」戦国から江戸への歴史の転換点|長崎の島と城跡を巡る旅【壱岐編】
長崎、島の城めぐり
壱岐
群雄割拠の戦国時代を経て、織田信長亡き後に明智光秀を討ち天下統一を果たした豊臣秀吉。
彼が次に目指したのは朝鮮半島、そして大国・明だ。
文禄・慶長の役と呼ばれる大陸侵攻が始まる。かつて海の向こうの敵から国を守る防衛ラインとなった壱岐・対馬が、今度は海の向こうへ攻め込むための拠点となった。秀吉が滞在するために名護屋城(佐賀県)が築城されたが、そこから朝鮮半島へ向かう中継地である壱岐に「勝本城」、対馬に「清水山城」が築かれる。
勝本城
天下人の夢の跡
勝本城を案内してくれるのは、壱岐市文化スポーツ振興課の松見裕二さん。現在勝本城は「城山公園」として整備されており、気軽に訪れることができる。
話を聞いた人
壱岐市 文化スポーツ振興課
松見 裕二さん
勝本城の築城を命じられたのは平戸を治めていた松浦(まつら)鎮信(しげのぶ)。
勝本城が築城されたのは、秀吉の命を受けたことによるもので、朝鮮出兵のためだけに兵站(へいたん)基地として築城された城です。居住目的の城であれば増築したり建て替えたりしますが、勝本城は築城当時のまま使われることなく放置されました。
そのため、後世の私たちは、貴重な安土桃山時代の城づくりを目にすることができるのです」
と松見さんは城跡が現存する歴史の奇跡を語る。
まず見に行くのは、「秀吉の大石垣」と名付けられた城山の中腹部分。比較的大きな石が用いられ、形を整えず切り出した形状のまま積まれている。
一説によると、織田信長の安土城の石垣も手掛けた石工集団「穴太(あのう)衆(しゅう)」の技術が用いられているといわれている。
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.勝本城の石垣。現在道路になっている部分の下に、階段状に盛り土をしてもう一段石垣が構築されていた。
遠くから見ると一面の巨大な石垣に見える仕組み.
まず見に行くのは、「秀吉の大石垣」と名付けられた城山の中腹部分。比較的大きな石が用いられ、形を整えず切り出した形状のまま積まれている。一説によると、織田信長の安土城の石垣も手掛けた石工集団「穴太(あのう)衆(しゅう)」の技術が用いられているといわれている。
「穴太衆が集団でやってきて石垣を造ったわけではなく、その穴太衆から技術を学んだ者が指揮したのだと思います。頑丈で、なおかつ迅速に城を造る必要があったのですから、自然石のまま積み上げる『野面(のづら)積み』を採用したのでしょう。穴太衆が得意とした野面積みですが、信長が召し抱えた時代から時を経て、石垣の隙間に小さな石を詰める打込接(うちこみは)ぎ積みに変化しています。これは秀吉時代によく見られた手法です」。
頑丈で、なおかつ迅速な作業が求められた勝本城の石垣造り。およそ4カ月という短期間で完成に至ったというから、命じた秀吉の権力がいかに絶大であったかがわかる。
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.野面積みで組まれた自然石の隙間に小さな石を詰め込んで強度を高めている.
「平戸の松浦氏だけでは予算も人員も足りませんから、南島原を治めた有馬晴信、大村の大村喜前、五島の五島純玄が協力し、超特急で建築が行われました。
土を盛って山を階段状にし、その法面に石垣を施しているのも安土城と同じ手法が用いられています。遠目から見ると上段と下段の石垣が一体となり、工事期間を短縮しながらも高く石垣が築かれているように見えます。
朝鮮出兵までに完成していないと秀吉の怒りを買いますから、必死に完成を急いだことでしょう。秀吉の体調を考えると、実際に勝本城を訪れた記録はなく、建設当時も秀吉が来訪する可能性は低かったと思われます。
しかし、万が一訪れた場合に城がなければ天下人の怒りを買ってしまう。戦う目的のない城でも、急いで完成させなければならなかったのです」
と松見さんは当時の状況を語る。
石垣を築くための石材集めについても、ある推測ができるという。
「壱岐市は“古墳の島”と呼ばれ、長崎県内で最も多い280基もの古墳が発見されています。その古墳は島全域に造られていますが、勝本城の周辺では比較的数が少なく、古墳に使われていた石を勝本城の石垣に使用したのではないかと考えられています。使えそうな石をかき集めて建設を急いだのかもしれませんね」。
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.壱岐島内には数多くの古墳があり、ここから勝本城に石が運ばれた可能性もある。
写真は6世紀後半~7世紀前半頃に築造された「鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)」.
石垣の上には大手門が設置されていた跡が残っている。この大手門の大きさは、実際の勝本城の規模から考えると不自然なくらいに大きいのだと松見さんは言う。
「大手門の大きさだけを見ると、全国から戦国大名たちが集結し秀吉本人も滞在した肥前名護屋城よりも大きいものが設置されていたようです。
しかし大手門内部の本丸は長辺が200メートルくらいの広さしかなく、アンバランス。これは、巨大な門を造ることで城の規模を過大に認識させたかったのだろうと考えられます。
敵軍が遠目から様子を伺う時、門の大きさから秀吉軍の軍事力を推測しますから。まさに勝本城は“見せるための城”だったわけです」
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.本丸エリアに造られた展望台から北側の海を臨む。視界が広く海を見張るには最適な場所.
そして秀吉の死去により終わりを迎えた朝鮮出兵。江戸幕府を開いた徳川氏は、対馬の宗氏に朝鮮との国交復活を命じる。そのため朝鮮出兵の拠点となった城を徹底的に破壊して「日本に戦う意思なし」と表示する必要があった。
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.勝本城の本丸部分。長辺200メートル、短辺50メートルほどの広さ。建物の礎石跡も発見されている.
「この巨大な門の石垣を見てください。角部分が意図的に壊されています。
城の石垣というものは角の強度が重要で、ここを破壊すると石垣の上に城を築くことはできなくなります。勝本城に残る石垣のほとんどが破却されているのが特徴です」。
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.石垣は角部分が壊れていなければ再利用できるのだとか。角を壊して見せることで敵対心の無さをアピール.
勝本城の完成後、戦国武将たちが続々と壱岐を訪れ、次の寄港地である対馬へと海を渡っていった。武将や家臣ばかりでなく船乗りや食事などの世話をする者、石工や大工など、多くの人々が集まり、小さな島はこれまでにないほど大いに発展したことだろう。
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.勝本城の大手門部分。門の扉は2~3メートルほどの大きさがあったと推定される. -
.勝本には、松尾芭蕉の弟子として知られる俳人・河合曽良の墓がある。その縁から勝本城のある勝本公園には句碑が設置されている.
秀吉の城はココにも…!対馬の「清水山城」
壱岐の勝本城と同じく、朝鮮出兵のための兵站(へいたん)基地として造られたといわれているのが、対馬にある「清水山城」。博多-壱岐と対馬を結ぶ船が発着する厳原港から車で約3分の場所にある標高210メートルの清水山に築かれており、頂上に本丸(一の丸)がある。低山だが登山道は急こう配。朝鮮からの撤退後はすぐに廃城となったため、当時の遺構が手つかずのまま残る。
紹介記事はこちら武将たちは壱岐で長く滞在したわけではなかったが、中には戦勝祈願として神功皇后を祀った神社に門を寄進した加藤清正や鍋島直茂などの例もある。
ちなみに、勝本城が築城された「勝本」という地名は、神功皇后が朝鮮半島に遠征した際、この地で風待ちをしたことから「風本」と命名したといわれている。秀吉がこの地に城を築いた理由は、ここから出兵して勝利を収める、まさに「勝つ源」にあやかり「勝元」として勝利を祈願したからかもしれない。
壱岐島内にある神功皇后を祀った神社「聖母宮(しょうもぐう)」。創建1300年の歴史を持つ。
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.壱岐島内にある神功皇后を祀った神社「聖母宮(しょうもぐう)」。創建1300年の歴史を持つ。. -
.裏門は鍋島直茂によって寄進されている.
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