長崎観光をおトクに楽しむアプリ「STLOCAL」。まずはダウンロード[PR]
城跡が語る壮大な歴史ドラマ!国家存亡の危機に備えて築かれた古代山城|長崎の島と城跡を巡る旅【対馬編】-1

城跡が語る壮大な歴史ドラマ!国家存亡の危機に備えて築かれた古代山城|長崎の島と城跡を巡る旅【対馬編】

長崎、島の城めぐり
対馬


国土を海に囲まれている日本は、海からさまざまな恩恵を受けてきた。そのひとつが、国防上のメリットだ。

航空機でアクセスする手段のない時代、日本に干渉する場合には船で海を渡ってくるしかなかった。海は鉄壁の防御壁。その安全神話が脅かされた時、古代日本の人たちはどれほどの恐怖を感じただろう。
 


本特集は、「月刊九州王国」2026年8月号巻頭特集に掲載した内容を掲載元の承諾を得て編集したものです。

金田城(かねだじょう)

国家存亡の危機! 
スケールが違う一大国家プロジェクト


今からおよそ1300年前、最も大陸に近い位置にある対馬に築城された「金田城」は、日本最古の歴史書『日本書紀』にも記載されている古代山城だ。

  • -1

    .山中に突如現れる「一ノ城戸」。山の谷部分には高い石垣が多く残っており、谷からの敵の侵入を拒む狙いがあったと考えられる.

金田城が何の目的で築かれた城なのか、考古学を専門としている対馬市教育委員会文化財課の森悠統(ゆうと)さんに話を聞いた。

コラム

話を聞いた人-1

話を聞いた人

対馬市教育委員会 文化財課
森 悠統 さん

.Q.1 金田城って、どのような城ですか? .
南北に細長い対馬の中央部分、三方を海に囲まれた「城山(じょうやま)」という岩山に築城された古代山城で、山の東側全体を囲むように約2・6キロもの石塁が築かれています。

667年に築城されて以降、破却されることなく現存し続け、明治時代には旧日本陸軍により砲台が構築され軍用道路も整備されています。

 
.Q.2 何の目的で築城されたのでしょう? .
築城のきっかけは、660年に高句麗・新羅・百済の三国が鼎立(ていりつ)し抗争を繰り返してきた朝鮮半島での大事件でした。新羅が大国・唐と同盟を結び、高句麗を孤立・弱体化させるため百済を攻撃、滅亡に追い込みます。百済と同盟関係にあった日本(倭国)は復興支援のために挙兵し海を渡りますが、663年の白村江の戦において大敗しました。時の権力者・中大兄皇子(後の天智天皇)は、新羅・唐の連合軍が、今度は海を越えて日本へ侵略してくるのではと危機感を抱き、迅速に対策を行います。

翌664年には対馬・壱岐・筑紫(福岡県)に防人を派遣し、“西の都”と呼ばれた行政機関・大宰府政庁を防護するため巨大な城壁「水城(みずき)」を建築。

665年に筑紫や長門(山口県)、667年には大和(奈良県)、讃岐(香川県)、そして対馬に山城を築城しました。対馬は朝鮮半島までおよそ50キロ、大陸が目視できるほど近距離にあるため、見張りを置くにはうってつけの島。周囲に山影が無く三方を見渡せる城山に、国家存亡の危機に備えた一大プロジェクトとして堅牢な城が築かれました。 南北に細長い対馬の中央部分、三方を海に囲まれた「城山(じょうやま)」という岩山に築城された古代山城で、山の東側全体を囲むように約2・6キロもの石塁が築かれています。

667年に築城されて以降、破却されることなく現存し続け、明治時代には旧日本陸軍により砲台が構築され軍用道路も整備されています。
  • -1

    .石段や石垣があり屋敷のようにも見える「二ノ城戸」。
    谷を石垣で固めることにより敵が上陸して山を登ってきた場合でもルートを限定することができた.

気分は古代遺跡ハンター!金田城跡をトレッキング

日本の歴史を語る上で欠かせない、“遺跡の中の国宝”とも呼ばれる「特別史跡」に指定されている金田城跡。どれくらいの規模なのかを知るには、実際に歩いてみるのが一番だ。

金田城跡がある城山は標高276メートル。明治時代に旧日本陸軍によって整備された道を登山道として歩くことができるので、子どもでもスムーズに山頂へ辿りつくことができる。

しかし、今回のメインは金田城跡。山頂を目指すだけでなく山の中に点在している石塁や城戸を辿る、冒険の旅を選択してみよう。

登山道は歩きやすさにビックリ!

登山口は対馬の玄関口・厳原港から車でおよそ30分の場所。駐車場に車を停めると、登山スタート!まず驚くのはきれいに整備された登山道の歩きやすさ【①】。

近年整備されたように感じるが、金田城の大規模な整備は、1300年前の築城の後、明治30年に陸軍が対島要塞の整備の一環として砲台を設置した時だ。

対馬は「国境の島」「国防の最前線」と呼ばれるが、実は平和な時間の方が圧倒的に長く、ほかの用途で再開発されることもなかったため、当時造られた建造物が壊されることもなくそのままの姿で残っている。

  • -1

    .①明治時代に陸軍が整備した登山道は車も通れるくらい広いが、当時はまだ蒸気自動車が海外から上陸したばかりの頃なので、馬車が通っていたのだろう。つづら折りのカーブには馬車の折り返し用のスペースもある.

歩く道のサイドにも注目。城山は岩山で土が少ないため、岩盤を削って道が造られている【②】。

明治期の開発でダイナマイトを用いた発破が行われことが、岩盤に人工的な穴が開いていることから分かる。削岩機(ドリル)は当時の最新式が投入されている。ガードレールなどはないので、足元にはご注意を。

  • -1

    .②岩盤を削り造られた道。海側は断崖絶壁なので景色に見とれて歩かないよう注意.

登山道は木陰の下を通っており、夏でも涼しい。15分ほど歩いて視界が開けると、「東南角石塁」【③】が見える。黒瀬湾に向かって長い石塁が続いており、城山を丸ごと城塞とするために、大規模な石積み工事が行われたことが一目でわかる。

  • -1

    .③石塁は城山をぐるりと取り囲んでおり、総延長はおよそ2.2kmもある.

1時間ほど歩いて城山山頂に到着。山頂には朝鮮半島方面を見渡す絶景が広がっている【④】。三方遮るものがなく視界は良好。水平線の異変にもすぐに気づくことができるだろう。防人たちがこの場所に築城した理由がよくわかる。

  • -1

    .④山頂からの眺めが素晴らしい。水平線の向こうに朝鮮半島があり、防人たちは怪しい船影が無いか注意深く監視していたことだろう.

そして山頂付近には陸軍が設置した軍用施設が数多く残されている。井戸や巨大な砲台、弾薬庫など、まるで時が止まっているかのように静かに佇む【⑤⑥】。

  • -1

    .⑤山頂付近に設置されている砲座は4基.
  • -1

    .⑥砲台の近くにある頑丈な弾薬庫.

険しい道を進んで城跡へ

少し登山道を戻って、東屋のある分岐点から金田城跡の史跡を見に行こう。こちらは一変して細く険しい道が続く。30分ほど山を下ると目の前に現れるのは二ノ城戸【⑦】。まるで謎の古代遺跡に迷い込んだかのような圧倒的な存在感。まさかこれが7世紀に築かれたものだとは、先人たちの苦労の結晶に言葉を失う。門の間口はおよそ3メートル。立派な城門が築かれていたことが想像できる。石段は海へと続いている。

  • -1

    .⑦石塁の途中に立派な城戸が構築されており、城の内外の通行に使われていた。写真は「二ノ城戸」.

冒険魂に火がついたら、さらに道を進んで一ノ城戸【⑧】へ。谷をふさぐ形で高い石垣が構築されている。突出部分は朝鮮半島で見られる築城方法のひとつ。

  • -1

    .⑧「一ノ城戸」。城戸が雨水の流れで決壊しないように水門も築かれていた。現在も水門は機能している.

上部と下部では石の質や積み方が異なっており、1300年の間に補修されたのではないかと見られている【⑨】。当時の最先端技術を用いて鉄壁の城塞を築いていることからも、金田城がいかに重要な城であったのかが想像できる。

  • -1

    .⑨一ノ城戸の突出部分。上部と下部が異なる時代に積まれている部分があり江戸時代頃に補修されたのではないかと見られる.

清水山城(しみずやまじょう)

壱岐の勝本城と同じく、朝鮮出兵のための兵站(へいたん)基地として造られたといわれているのが、「清水山城」。低山だが登山道は急こう配。朝鮮からの撤退後はすぐに廃城となったため、当時の遺構が手つかずのまま残る。

  • -1

    .清水山の頂上に造られている本丸(一の丸)。石垣で楕円形に頂上部を囲み曲輪が造られている。石垣の門は二カ所設けられているが、敵の侵入に備えて直線状にならないよう造られている.

肥前名護屋城を出発した軍勢が壱岐に立ち寄った後、朝鮮半島に向けていよいよ日本を発つ最後の中継地として対馬にも兵站基地が造られた。秀吉が命じたという明確な一次資料はまだ発見されていないが、それが清水山城であると推測される。

秀吉が滞在するための屋敷(御座所)は、山のふもとに造られた「金石城」と考えられる。清水山城は朝鮮半島側ではなく壱岐側を向いて築城されており、一説によると、最後の中継地に立派な石垣の山城を築くことで、船で壱岐方面からやってくる兵士たちに見せて鼓舞する目的もあったのではないかと推測されている。

  • -1

    .史跡を見ることができる登山道は尾根沿いに造られており、足元が不安定な急傾斜の場所もあるので注意が必要。写真は三の丸から二の丸を目指す道中で、岩盤が露出した尾根上を歩く.

肥前名護屋城とは異なり、兵士たちが長期滞在する目的で築城された城ではないので、武将たちの陣跡なども確認されていない。あくまで食糧や武器の補給、風待ちなどの目的で立ち寄った場所で、実際に第1陣として渡海した小西行長や宗義智は6日間程度の滞在時間だったといわれている。

清水山城の構造は、清水山の尾根沿い東西約500メートルに一の丸・二の丸・三の丸の曲輪(くるわ)(平坦地)が造られており、細長い直線状に配置されている。この形状は、朝鮮出兵時に日本の武将たちが朝鮮半島を制圧していく中で拠点として築いた倭城に類似している。また、それぞれの曲輪で石積みの様式が異なっており、複数の武将たちが同時期に建設を進めてスピーディーに完成させたことが推測される。

  • -1

    .一の丸からは雄大な眺望を楽しむことができる。登山道入り口から一の丸まではおよそ2時間で往復できる。距離は長くないが急こう配が続くので、歩きやすい登山靴の着用がおすすめ。登山道入り口に駐車場はないので、ふもとの「対島朝鮮通信使歴史館」に車を停めてチャレンジしよう.

本特集は、「月刊九州王国」2026年8月号巻頭特集に掲載した内容を掲載元の承諾を得て転載したものです。
あなたに最適な観光プランをAIが無料作成
当サイトでは、利便性の向上と利用状況の解析、広告配信のためにCookieを使用しています。サイトを閲覧いただく際には、Cookieの使用に同意いただく必要があります。詳細はクッキーポリシーをご確認ください。