後期倭寇「王直」謎に包まれた海賊王の根城|長崎の島と城跡を巡る旅【新上五島編】
長崎、島の城めぐり
新上五島
14世紀から16世紀にかけて、「倭寇」と呼ばれる人々が活動していたことは、広く知られている。
後世において彼らは「海賊行為を行う日本人を中心とした海賊」と語られることが多いが、16世紀に活動した「後期倭寇」は中国人が中心となり、海賊というより海商として海をわたり活躍していた。
当時中国を統一した明が私貿易を禁じたが、禁を破り海外貿易を行う彼らは倭寇と呼ばれるようになったといわれる。
後期倭寇の中でも絶大な貿易力を持ち活躍したのが「王直」という明出身の海商だ。東シナ海で貿易を行っていた王直は平戸を治めた松浦氏の庇護を受け、五島列島を中心に拠点を構えていたという。
王直の拠点のひとつといわれている新上五島町小手ノ浦沿岸に、船団基地のひとつと目される小さな入り江がある。
本特集は、「月刊九州王国」2026年8月号巻頭特集に掲載した内容を掲載元の承諾を得て編集したものです。
王直ゆかりの地 小手ノ浦(こてのうら)
謎に包まれた海賊王の拠点
石塁、墳墓から見る船乗りたちの生き方
-
.小手ノ浦沿岸の様子。複雑なリアス海岸が波を穏やかに保つ。過去には養殖事業も行われていた.
「小手ノ浦が王直の拠点であるという明確な文献があるわけではないのですが、残されているさまざまな遺構から、“王直ゆかりの地”といわれています」と、新上五島町生涯学習課の学芸員・松園菜穂さんが案内してくれる。
話を聞いた人
新上五島町生涯学習課 学芸員
松園 菜穂さん
小手ノ浦沿岸に向かうにはつづら折りの山道を車で下っていく。その途中、入り江が見える場所で一度車が停まった。山と山に隠れるように見える入江。沖の方、入り江の入り口を外界から隠すように、鯨のような形の島が浮かんでいる。
「串島、という無人島です。串島が風を遮ることで入り江は波が穏やかになり、安全に船が出入りできる良港になっていました。串島の周辺の海底からは石製の錨(いかり)が発見されています。この石製の錨は鎌倉時代に中国の船で多く使用されていたもので、難破して沈んだ可能性もありますが、錨を下ろして中国の船が停泊していたのではないかとも見られています。中国から小値賀や平戸を目指す時は新上五島町の西側を航路としていましたが、この石は島影で風待ちをしていた物証です。それでは、沿岸の遺構を見に行ってみましょう」
-
.串島が風を遮ってくれることで入江は波が穏やか.
小手ノ浦沿岸には私有地を通って行くため、今回は特別に通行の許可を得て遺構のある場所に向かう。
湾曲した入り江を沿岸に沿って歩き、船着き場の跡と言われている対岸へ。生い茂った草をかき分けて小高い丘へ上がると、そこには少し開けた場所があり、物見やぐらがあったと推測される石積みが残っている。
-
.石がごろごろと転がる細い道を歩いて沿岸を臨む小高い丘へと登る.
観光で訪れる人は、案内板が設置されている山道の途中から入り江を見ることができる。
「小手ノ浦は小さな漁港で、江戸時代頃から定住した人たちが集落を形成したといわれています。漁港側の沿岸も石積みが構築されていますが、石の材質や積み方が異なるため、この遺構周辺は近現代よりも前に構築されたものと考えられます。平成初期に行った現地調査の結果では、小手ノ浦の海岸で16世紀・明時代の染付磁器碗片が採集されました。そのまま王直に結びつけることは難しいですが、16世紀に小手ノ浦で人の生活があったことの証といえます」
-
.この石積みの丘の上に見張り小屋として使われた可能性のある平場がある.
「漁港には山から川のように水が流れ込んでおり、今よりもっと水量も多かったといわれています。そのため小手ノ浦は水を補給できる船団基地があったのではないかと推測できます。海を見張る丘があり、さらに墳墓と見られる人工的な石積みの跡もあります。そして船着き場も、江戸時代のものとは異なる石の積み方で構築されていて、王直の船団がこの港を活用していたのではないかと考えることができます」
王直がこの小手ノ浦に出入りしていたと推測される時期は、彼が平戸の松浦氏の庇護を受けていた室町時代末期のこと。五島列島の小値賀島や五島市の福江島にも拠点を構えていた王直の船は、水場があり風が収まるのを待つことができる小手ノ浦の入り江に立ち寄っていたのではないか…。確たる文献の証拠は発見されていないが、この小さな入り江が中国船で賑わった様子を想像するとロマンを掻き立てられる。
-
.沿岸内の船着き場跡の可能性がある岩場。波が高い時は石塁から荷の上げ下ろしが行われていたと推測される.
■小手ノ浦沿岸 長崎県南松浦郡新上五島町飯ノ瀬戸郷
※沿岸部は私有地
松園さんと一緒に、墳墓跡とみられる丘の上に登ってみた。そこには確かに人工的に運ばれたとみられる板のような石が積まれている。
「この集落では昔、天然痘で亡くなった人を埋葬するため串島に運んでいたそうです。沿岸の丘の上は生活圏と近すぎるので、この集落の人たちが利用していた墳墓跡ではないように思います。眼下に海を臨む沿岸の丘に墳墓を造ったのかもしれませんね」。
縦横無尽に海を渡り東アジアで活躍した海商・王直。彼の船団にとって静かな小手ノ浦の入り江は、やすらぎの場所でもあったのかもしれない。
-
.墳墓の跡には板状の大きな岩が置かれている。
「亡骸を埋葬した上にこうした板状の石を置き重ねていたと考えられます。明らかに自然石ではないので、別の場所から運んだのでしょう」.
王直・倭寇ゆかりの場所はココにも…!五島市の明人堂・六角井
王直が航海の安全を祈願したとされる廟堂「明人堂」や、王直時代に唐人たちによって造られたといわれている中国式の「六角井」など、ゆかりのスポットが点在している。
紹介記事はこちら魚目城跡(うおのめじょう)
-
城をテーマに上五島を旅するなら、こちらの山城にも立ち寄ってみてはいかが?
昭和末期の発掘調査で、倭寇が活躍した時代と同じ中世に築城された可能性が高いとされた山城で、現代の新上五島町を中心に五島列島を拠点とした清原氏が城主といわれている。
発掘されたのは主に主郭平場や水門跡、階段状遺構など。どのような目的で築城されたのか、城について詳しく文献などに紹介されているわけではないため不明だが、清原氏の滅亡と共にそうした資料も焼失したのではないかと考えられる。
階段状遺構については山頂に至る谷筋や尾根に構築されており、実際に階段を上ることができる。山頂付近は展望公園として整備され、主郭部分には天守閣を模した展望台が建てられている。晴れた日には展望台から遠く平戸まで見渡すことができ、ピクニック気分で山城探訪を楽しめる。
■魚目城 長崎県南松浦郡新上五島町榎津郷
【特集】長崎、島の城巡り|長崎の島と城跡を巡る旅
■対馬
城跡が語る壮大な歴史ドラマ!国家存亡の危機に備えて築かれた古代山城
■壱岐
豊臣秀吉が朝鮮出兵のため築いた「勝本城」戦国から江戸への歴史の転換点
■五島
日本で最後に造られた城「福江城」三方を海に囲まれた領海警備の要
NEXT
