
長崎新キリシタン紀行-vol.7 明治宣教師の偉業と長崎の教会堂
明治中期以降、長崎県内外に続々と教会堂が建設されていきました。
「神の家」である教会堂建築は、信教の自由を手に入れカトリックに復活した日本人信者たちの悲願。
そこには彼らの〈想いを形にする〉という強い意志と、それを実現させる外国人宣教師の情熱、それに倣い、教会堂建築に力を注いだ日本人棟梁の姿がありました。
初期の宣教師に倣った教会堂づくり
現在、長崎県全域に分布する教会堂を巡るとき、海や山、雄大な自然のなかに溶け込むように佇む木造の素朴な教会堂、あるいは、突如として現れる煉瓦造教会堂の勇壮な姿に心動かされます。今、その地に教会堂が在るということは、その集落に7代にもわたる長い潜伏キリシタンの営みがあった証であり、彼らの長年の〈想い〉が形になったのだという感動が押し寄せてくるのです。
初期の宣教を行ったヴァリニャーノ神父は、日本古来のものを大切に、日本人信徒に寄り添うことを大切にしました。そのため、その当時各地に建設した教会堂にも、ザビエル同様、日本の職人による木造建築の伝統的技術を用いることを重んじたといいます。
およそ250年もの月日を経て、再宣教のために来日した明治宣教師たちは、「天正遣欧少年使節」のヨーロッパ訪問をはじめ、ヴァリニャーノが行った布教の様子を知っていたでしょうし、フロイスが残した膨大なイエズス会の活動記録を大きな指針にしていたことでしょう。おそらく、それらすべてが再布教にかける情熱の源になったに違いありません。点在する教会堂を巡ると、初期の宣教師の魂が明治宣教師の教会堂建築にも受け継がれていたことを窺い知ることができます。
パリ外国宣教会本部の古文書館に保管された大浦天主堂の設計図には、黒インクで輪郭を描き、茶、水、灰色で着色された完成時と同じ日本風のナマコ塀が描かれています。木造、漆喰を用いた和洋折衷の教会堂建設の采配を振ったのは、当時、長崎で土木業を営んでいた日本人棟梁 小山秀之進。建設には小山の技術に沿った提案も盛り込まれたといいますが、意向の多くは、長崎に派遣されたフィーレ、プティジャン両神父を含め、日本に再宣教をはじめたパリ外国宣教会の強い〈想い〉が込められたものでした。
大浦天主堂創建以降、長崎県内外、信仰を守り続けた集落に建設された数々の教会堂には、設計した宣教師たち、そして復活した信者たちの〈想い〉が詰まっています。
最終回となる今回は、苦難を乗り越え、各地に誕生した教会堂の建設秘話に迫ります。
創建時の姿に秘められた真実
元長崎総合科学大学学長で「長崎の教会堂を世界遺産にする会」会長であった林一馬氏は、著書『長崎の教会堂』において、元治元年(1864)創建時の構造から、大浦天主堂には26の窓があり、それが二十六聖人の象徴であったのではないかと推察しておられます。
「単なる偶然にしては出来すぎているし、二十六聖人に捧げる聖堂を建設するという初発の意思からすると、こういう秘かな寓意もありえぬことではない」というのです。
大浦天主堂は、台風被害や機能性を考慮しての増改築を経て、明治10年頃には早くも姿を変えていたようで、遺された外観写真からはその真否は窺い知れません。しかし、坂段を上り、堂宇入り口に立ち振り返ると、前方に二十六聖人殉教の地である西坂の丘を望むことができます。この立地ひとつをとっても、大浦天主堂の建設にあたり、多くの〈想い〉が二十六聖殉教者に向けられていたことに気づかされます。
日本人信者を想い建てられた初期の木造教会堂
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また林氏は、明治中期頃までに建てられた初期の木造教会堂の特徴について、いずれも単層の屋根、外壁は漆喰塗りや簡素な板張りであり、ほとんど民家と見間違えるほどの様相を呈していた点を挙げています。教会堂建築導入期における洋風の建築技術の未熟さなどがその理由と考えられがちですが、フランス人神父たちの指導があったと推測されるなか、あえて民家風の外観にしたのは、むしろ地域の土着的な風土に馴染み、周囲の景観に同化させようと意図的な表現だったのではないか、と説いておられます。その根拠に、控えめな外観と相反して堂内は当初から「神の家」と呼ぶにふさわしい、ゴシック風リブ・ヴォールト形式天井などの美しい造形であったからです。
また、当時、構造技術は大工棟梁たちに委ねられ、多くの教会堂の床は板敷きで、その上に畳やゴザを敷く直座式だったと推察されています。内部の低い天井も、目線の低さに対応する日本人に適した教会堂空間に仕上げられました。五島久賀島の旧五輪教会堂〈明治14年(1881)創建)、新上五島町の旧江袋教会堂〈明治15年(1882)創建〉がそれにあたりますが、これら優れた教会堂以外にも、小規模で粗末なものも数多く存在しました。
日本人信者のために建てられた最初の教会であった伊王島の旧大明寺教会堂のリブ・ヴォールト天井は、初期のほかの5棟は板張りであるのに対し、大浦天主堂同様に漆喰塗りでした。この教会堂は伊王島の主任司祭 ブレル神父が設計。施工は伊王島出身の棟梁で大浦天主堂建設にも参加した大渡伊勢吉が手掛け、明治13年(1880)に完成しました。大浦天主堂の影響を強く受け、天井頂部に施された木彫りの装飾なども類似していました。
また、伊勢吉と同じく、小山の下で大浦天主堂建設に携わった大工には浦上の溝口市蔵、外海 黒崎の川原久米吉という2人のキリシタンがいました。明治13年(1880)、上五島に配置されたブレル神父は初期の仲知、大水、野首、瀬戸脇、そして旧江袋教会堂を設計していますが、旧江袋教会堂の施工は川原久米吉でした。
このころブレル神父は外海のド・ロ神父を度々訪れていたといいます。教会堂建設の初期当時、設計指導したフランス人宣教師たちの関心は教会堂の見かけ上の造形に強く向けられる傾向にありましたが、ド・ロ神父は土着的な風土への融合という側面を重要視し、造形志向とは一線を画す独自の作風を持っていました。旧江袋教会堂には、初期の外海 出津教会と同じく、珍しい「袴腰屋根」や軒下に突き出した梁端の繰形など、ド・ロ神父の建築技術が見られることから、ド・ロ神父の息が吹き込まれていた可能性も考えられています。
日本人信者を想い建てられた初期の教会堂
日本人信者のために建てられた最初の教会であった伊王島の旧大明寺教会堂のリブ・ヴォールト天井は、初期のほかの5棟は板張りであるのに対し、大浦天主堂同様に漆喰塗りでした。この教会堂は伊王島の主任司祭 ブレル神父が設計。施工は伊王島出身の棟梁で大浦天主堂建設にも参加した大渡伊勢吉が手掛け、明治13年(1880)に完成しました。大浦天主堂の影響を強く受け、天井頂部に施された木彫りの装飾なども類似していました。
また、伊勢吉と同じく、小山の下で大浦天主堂建設に携わった大工には浦上の溝口市蔵、外海 黒崎の川原久米吉という2人のキリシタンがいました。明治13年(1880)、上五島に配置されたブレル神父は初期の仲知、大水、野首、瀬戸脇、そして旧江袋教会堂を設計していますが、旧江袋教会堂の施工は川原久米吉でした。
このころブレル神父は外海のド・ロ神父を度々訪れていたといいます。教会堂建設の初期当時、設計指導したフランス人宣教師たちの関心は教会堂の見かけ上の造形に強く向けられる傾向にありましたが、ド・ロ神父は土着的な風土への融合という側面を重要視し、造形志向とは一線を画す独自の作風を持っていました。旧江袋教会堂には、初期の外海 出津教会と同じく、珍しい「袴腰屋根」や軒下に突き出した梁端の繰形など、ド・ロ神父の建築技術が見られることから、ド・ロ神父の息が吹き込まれていた可能性も考えられています。
信仰を表現する堂々たる煉瓦造教会堂全盛期へ
明治22年(1889)に公布された大日本帝国憲法のなかで、遂に「信教の自由」が公認。この明治中期から後期にかけてはフランス人宣教師たちによる煉瓦造教会堂時代に入っていきます。煉瓦造教会堂は増築した大浦天主堂以降、明治15年(1882)の出津教会堂まで18年もの間、建設されることはありませんでしたが、それ以降、ド・ロ神父の設計指導による石造の大野教会堂を含め6棟が建設されました。著しく建設されたのは1901年から1920年頃で、全19棟のうち半数がこの時期に建造されています。一方、木造教会堂は教会堂が建設された全ての時期にわたって建設されていきました。
煉瓦造であっても外壁の煉瓦積みをそのまま剥き出しにするものと、その上に漆喰やモルタルで覆うものの2通りがありました。後者に属するものが大浦、出津、そして当初からそうであったかは不明ですが神ノ島教会堂です。また、明治23年(1890)に完成したマルマン神父設計の伊王島 旧馬込教会堂も伊勢吉の施工であり、大浦天主堂の影響を強く受けた漆喰塗りであったようです。
月日をかけても立派な教会堂を
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ヨーロッパでは古くから公的、正式な建築では石造を優位とする考え方が支配的で煉瓦壁を剥き出しにすることは避けられていました。そのため、煉瓦造の外壁を被覆しているのは初期に限定されています。以降、煉瓦壁剥き出しの教会堂が増えていきます。
現存するマルマン神父設計の佐世保 黒島天主堂〈明治35年(1902)創建〉、ペリュー神父設計の五島福江島 堂崎教会堂〈明治40年(1907)創建〉などを見ても、創建時、目にした人々は、分厚い赤煉瓦を積み上げた勇壮な姿に構造的堅牢さを感じ、その迫力と美しさに魅了されたと想像できます。
この時期は地域風土への同化という傾向はほとんど見られず、堂々と純粋に教会堂としての形態が表現されました。また、一旦、簡易な木造教会堂が建てられても、その後煉瓦造教会堂を望む声が高まることも多く、その場合、建設資金は信者たちの拠出金で賄われるものであったため、費用を積み立てていきました。信者たちは貧しい暮らしをしていたため、完成までには長い時間を要することとなりました。
唯一無二の教会堂棟梁、鉄川与助
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「天主堂は長崎の風土、景色、光そして信者の信仰から生まれた建物である」。
これは、日本二十六聖人記念館初代館長、故結城了悟神父が著書『長崎の天主堂』に記した一節です。さらに文章は「天主堂の建築には『調和』が1番適当なことばである。大きさ、形、門、窓、柱。祭壇などがお互いに調和している。建物全体はまた、その土地の自然と調和する。その建築を造り上げた心と頭と手の間に分裂がなかった。天主堂は外国の建築から発達した長崎的な美しい建物である」と続きます。故結城神父が長崎の教会堂に抱いた、このような精神をよくよく心がけ、実現させたのが五島出身の鉄川与助という日本人棟梁であったのかもしれません。与助は、直接外国人宣教師から教会堂建築について学び、生涯で長崎県外に数多くの教会堂を手掛けた日本人随一の教会堂棟梁でした。
外国人宣教師に学び、羽ばたく与助
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明治20年(1879)、上五島 旧新魚目町丸尾の大工の長男として生まれた与助は、小学校卒業後、五島の教会堂建築の草分けといわれる福江島 野原棟梁の弟子となりました。
与助に初めて教会堂建築を指南したのは、来日宣教師のなかでも特に建築の知識に明るく、明治28年(1895)に五島 玉之浦町に煉瓦造の旧井持浦教会堂を完成させていたペリュー神父でした。与助自身の回顧談によれば、最初に教会堂建設に関わったのは、同神父が1901から1902年にかけて与助の地元に建てた旧曽根教会堂であったといいます。「ペリュー神父からリブ・ヴォールト天井をかける方法と幾何学を学んだ」と語っていることから、続いて同神父が手掛けた木造の旧鯛ノ浦教会堂、煉瓦造の堂崎教会堂の建設現場に出入りし、その他多くの技術を学んだと考えられます。
また、与助はド・ロ神父とも交流し、現在の旧長崎大司教館の新築工事にて直接建築の手ほどきを受けています。「お前の技術は大工の弟子上がりの程度だよ。お前に比べると私は大学の建築科卒業生なみのエンジニアだね」などと、からかいながらも、ド・ロ神父は親しみを込めて与助を「テツ」と呼び、建築の専門書籍や木工用旋盤、カンナなどを授け、モルタルの塗り方や、煉瓦の使い方をはじめ、教会建築に関する様々な事柄を教え込みました。

COLUMN1 旧井持浦教会堂
与助が影響を受けたペリュー神父が設計した五島市玉之浦町の旧井持浦教会堂には、日本初のルルドが設置されました。ルルドとは、南フランスにある地名で、信徒発見の7年前にあたる1858年、その地の洞窟で聖母マリアが少女ベルナデッタの前に出現し、洞窟前に湧き出た霊泉で難病を治したと云われる場所。このルルドの出来事と信徒発見は、同時代に起きた奇跡といわれ、以降、世界各地でこの洞窟を探しマリア像を収めたルルドが建設されました。本場のルルドは地名ですが、日本では〈奇跡の泉〉や〈巡礼地〉の意を込めた固有名詞として使用されます。また、ルルドに設置された聖母マリア像には例外もありますが、ある共通点があります。少女ベルナデッタの前に現れた聖母マリアが、〈私は汚れなき孕りです〉と告げたことから、そのときの聖母の姿、白いベールと服、そして青い帯の姿が〈無原罪の聖母〉として定着したのです。井持浦教会の他にも、五島中通島の鯛ノ浦教会、平戸市の田平天主堂、長崎市深堀地区の善長谷教会、聖コルベ神父が創設した本河内教会(本河内1丁目)、戦後、浦上信者の心を癒すためにと設置された小峰のルルド(三原1丁目)などがあり、カトリック信者をはじめ、多くの巡礼者が足を運ぶ巡礼地となっています。

COLUMN2 旧長崎大司教館(下記参照)
◆大浦天主堂キリシタン博物館
鉄川与助がド・ロ神父に直接建築の手ほどきを受けたのは、ド・ロ神父最後の作品、大浦天主堂に先立ち建設されたこの司祭館の建て替え工事にあたった4年程度でした。クザン神父の司教就任記念事業として持ち上がったこの工事は、ド・ロ神父が設計を担当。与助が施工者に選ばれました。斜面地を巧みに利用した一部地下1階を持つ地上3階建てで、構造は煉瓦造を主体に木造も加味されています。現在は同じくド・ロ神父が設計した旧羅典神学校とともに、大浦天主堂キリシタン博物館として、キリシタン史にまつわる貴重な資料を展示公開しています。長崎県指定有形文化財
独自の建築方法を極めて
信者にも負けない強い〈想い〉で教会堂建設に向き合った設計・施工者である鉄川与助が新築、増改築で携わった教会堂の数は長崎県内外50棟にものぼります。そのひとつひとつに信者たちの夢、願いを叶えるという〈想い〉を込め、挑み続けたに違いありません。
全くの素人であった与助が手掛けた教会堂の数、多様性、完成度はほかに類を見ません。神父たちの生き方、建築に関する考え方、その全てを尊敬した与助は、神父の素材選びや建築に対する姿勢、教会堂建築のノウハウや、工事現場の指導者の役割について彼らから吸収。初期の作品には同時期に師であるペリュー、ド・ロ両神父らが手掛けた教会堂との共通点が多々見られるものの、しだいに自身が描く教会堂建築方法を生み出していきました。
木造、煉瓦造、石造、鉄筋コンクリート造、また、内部空間においても、高い天井を目指してリブ・ヴォールト天井や折上げ天井などの工法を極め、与助にしかできない教会堂建築を確立させていったのです。
待ち望む信者のために立派な教会堂を
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与助の実質的な処女作は、新上五島町、奈摩湾を見下ろす高台に建てられた純木造の冷水教会堂(1907年創建)です。
そして驚くことにその翌年には、小値賀町の離島 野崎島に煉瓦造の旧野首教会堂を建立。大正元年(1912)には、生月島に同じく煉瓦造の山田教会堂を竣工させました。冷水教会堂は全体的な平面形状や内部の立面と天井の構成、列柱の柱頭彫刻など、地理的にも近い旧鯛ノ浦教会堂に酷似。
また、煉瓦造の堂崎天主堂の直後に完成した旧野首教会堂は、尖頭アーチの構え方や頂部に石を載せた控壁(主壁から突き出した補助的な壁)など、煉瓦造の基本がよく似ていて、双方を手本にしている印象が見られるといいます。山田教会堂の内部にも、上のアーチ壁の表面に装飾を施したり、リブ・ヴォールト天井の曲面を板張りにしたりするなど、建立ほど近い平戸 宝亀教会堂に見られる手法がありました。どれもペリュー神父設計・施工の教会堂であり同神父に学び模倣した痕跡が伺えます。
一方、与助31歳のときに竣工した煉瓦造の青砂ヶ浦天主堂は、初めて重層の屋根を採用するほか独創性のあるデザインで統一。その後すぐに、五島 岐宿町にも同教会堂の変形縮小版的楠原教会堂を完成させました。
八角ドーム屋根は与助の象徴に
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このようにいくつかの教会堂を完成させることで、与助の名声は長崎司教区の神父たちに広く知れわたり信頼を集めていきました。ド・ロ神父とともに大司教館建設に携わっていた時期と重なる大正2年(1913)、与助は福岡県大刀洗町の今村天主堂を竣工させ飛躍的な発展を見せます。なかでも印象的なのは正面の双塔で、長崎県周辺で最初の試みであり、純煉瓦造では全国初でした。双塔頂部に載っている銅板葺きの八角ドーム屋根は今村以降、与助作品で繰り返し用いられた塔の造形モチーフで、神ノ島教会堂に倣ったものと推測されています。後に与助は、原爆で倒壊した旧浦上天主堂の双塔も手掛けています。
今村天主堂と双璧をなす完成度とされるのが平戸 田平天主堂〈大正6年(1917)創建〉。またその前年創建の大曾教会堂も、資金面の問題からか簡略化されているものの、外壁の煉瓦積みを装飾的に扱うなどの新しい試みを見せています。

COLUMN3 旧浦上天主堂の双塔
大正4年(1915)に完成した旧浦上天主堂は、資金面で信者の負担を減らし一刻も早く祈りの場を持ちたいと急いだため、当初瓦屋根だったそうです。しかし、大正14年(1925)、ついに聖堂正面に双塔を建ち、フランス製のアンジェラスの鐘が備えられた鐘楼が完成します。双塔は鉄川与助によるもの。ドームの雰囲気がいかにも与助らしいですね。しかし昭和20年(1945)、原爆の被害を受け、双塔の鐘楼は南側のものが堂内に、北側のものが天主堂北側に落下し、崖下を流れる小川まで滑落しました。北側の鐘楼は河川改修により石垣の中に一旦埋められましたが、昭和46年(1971)に発掘され、現在もその姿を見ることができます。
信者を想い、学び、挑み続けた与助
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大正7年(1918)創建の江上天主堂は、木造教会堂で最も完成された形態と称賛されます。この教会堂を、与助は約1年で生み出しました。流線型の柱には櫛を使い木の年輪を描くなど細やかな仕事が見られます。また、初めて内部の露出する木部すべてを木目塗りにしていますが、これはド・ロ神父が出津教会堂に用いた技法で、ド・ロ神父への感謝と追悼の意が窺えます。
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幕末まで無人島であった頭ヶ島には、鯛ノ浦の潜伏キリシタンが迫害を逃れて住み着き、明治20年(1887)、指導者 ドミンゴ森松次郎の屋敷跡に最初の木造教会が建てられましたが、大正8年(1919)、与助の手によって西日本でも唯一、全国でも極めて珍しいロマネスク様式の石造教会堂、頭ヶ島天主堂が建立されました。信者らが切り出した石を船で運び、丹念に積み上げ、約10年もの歳月をかけての完成でした。
重厚感あふれる外観に対し、堂内は天井や壁面などに椿などの装飾を施し、優しい印象。五島で古くから親しまれていた椿のモチーフを与助も度々用いました。この教会堂では、花柄模様をより大胆にし、荘厳さより日本の風土に根付いた空間の創造に取り組んでいます。
煉瓦造教会堂建設の全盛期であった1920年以降、煉瓦造教会堂は1棟も建設されていません。その理由は、大正12年(1923)の関東大震災であるとされ、その耐久性から教会堂は鉄筋コンクリート造が主流となっていきました。
与助の名声は天草にも
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天草で今も聖者のように追慕されているガルニエ神父が着任してから約40年後、すべての私財を投じて信者とともに建設したのが、与助の設計・施工、ロマネスク様式による白亜の大江天主堂〈昭和8年(1933)創建〉です。当時、山深い丘の上に完成した八角ドームの鐘塔を持つ教会堂は、さぞ際立ったことでしょう。建立時はコンクリートの地肌そのままでした。
その後、高齢のガルニエ神父に代わり長崎黒崎教会堂のハルブ神父が定住4代目として﨑津に転任。老朽化した初代の教会に継ぐ新﨑津教会堂の建築がはじまりました。天草下島の小さな漁村の集落中央に佇む、この﨑津天主堂〈昭和9年(1934)創建〉を対岸からはじめて目にしたときの感動は忘れられません。羊角湾のなかほど、折り重なる山々を背景に日本家屋の小さな集落とそのなかに浮かび上がる教会堂のシルエット。別称「海の天主堂」と呼ばれるにふさわしい光景です。ハルブ神父は昭和8年(1933)、潜伏時代に絵踏が行われた庄屋宅跡を買い取り、与助に建築を依頼しました。ハルブ神父は日本大工の技術を生かしつつ和洋折衷を試み、かつ経費の節約に努める与助の姿勢を気に入ったといわれます。それに応え、資金不足を補うように3分の2は木造で正面側1.5間分と鐘塔は鉄筋コンクリート造になっています。
与助はガルニエ神父やハルブ神父の理想とした教会堂を、自身が従来持つ技術に鉄筋コンクリート造の新たな技術を加え、天草の各地に調和した教会堂を完成させました。
COLUMN4 絵踏が行われた庄屋宅跡
◆十字架山
現在、浦上天主堂がある場所も、キリシタン潜伏時代に浦上の信者たちが「絵踏」を強要された場所でした。信仰の自由を得られ、喜ぶ信者たちが一方で抱く深い懺悔の念。それは、心ならずも7世代にわたる250年余り、毎年「絵踏」を続けてきた罪の意識でした。浦上信者たちは祖先や自らの罪、また、その非道を強制した為政者の罪の重さに対しても償わなければならないと考えていました。当時の浦上教会のプトー神父は、その心をよく理解し、キリスト受難の丘、カルワリオの丘によく似た平郷の丘に十字架を建て、償いと感謝も聖地にしようと提案します。そして信者たちは競って労働奉仕し、石を山頂へと運び上げ、明治14年(1881)9月14日、「十字架称賛の祝日」をもって創設の日としました。以来この地は十字架山と呼ばれ、「絵踏」の償いとしてこの丘に登り、神の赦しを子孫代々祈り続けていく巡礼地となりました。昭和25年(1950)、ローマ教皇ピオ12世は、日本二十六聖人殉教地である西坂の丘とともに、この十字架山もカトリック教徒の公式巡礼地に指定しています。
終わりに
“キリシタンの歴史から学ぶこと”を唱え続けられた日本二十六聖人記念館初代館長 結城神父は次のように語っています。
「私にとって天主堂は、美しいものよりも人間の心を表す為に力がある建物である。司祭であった設計者と迫害を味わった地元の信者は、心を合わせて信仰の自由の喜ばしい夜明けには、その天主堂、即ち神の家を夢見た。そして、貧しいながら手近にある材料、木、赤レンガ、砂石などを使ってその夢を実現しようと努めた。その建物を訪れた時に私は教えられた。あの浜から砂を運び、この丘の粘土でレンガを作り、窯の跡があそこにある。石はここで切られた。設計した神父の墓は天主堂のそばに見られる」。
明治宣教師たちの情熱と信者たちの汗と努力により、信仰を守り続けた集落に誕生した教会堂は、100年以上、代々守り継がれて今に至っています。彼らにとっては、先祖、そして宣教師たちと一体化した心の拠りどころ。同時に地元住民にとっても、この土地を育んできた先人に思いを寄せ、心からこの土地の財産であると誇りに思える場所でもあります。
登場した構成資産
関連地
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江袋教会
江袋の信徒は、禁教令の高札が撤去された1873年に激しい迫害を受けたが、1882年にはブレル神父の指導と援助で教会を建てた。 2007年に焼損するまで、五島で最古のこうもり天井の木造教会だった。 全国から支援を受けて復元工事が進められ、2010年5月に完成、献堂式が行われた。もっと見る -
堂崎教会
もっと見る禁教令が解かれたあと、五島キリシタン復興の任を帯びて、フランス人宣教師フレノー、マルマン両神父が五島を訪れ布教にあたり、1879年にマルマン神父によって、五島における最初の天主堂(木造)が建てられました。
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井持浦教会
かつて、大村藩からの移住キリシタンが潜伏し、五島藩が塩造りの竈場で働せたという地区です。もっと見る
1897年建立のレンガ造教会が台風で倒壊し、1988年にコンクリート造の現教会となりました。
当時の五島列島司牧の責任者ペルー神父は、1891年、バチカンにこのルルドの洞窟が再現されたと聞き、五島の信徒に呼びかけて島内の奇岩・珍石を集め、1899年、日本で最初のルルドを作りました。この霊水を飲むと病が治ると言われ、日本全国の信者の聖地となっています。 -
冷水教会
もっと見る冷水では五島崩れで迫害を受けた信徒は、逃れて戻ることはなかったらしい。今の冷水のほとんどの信徒は、迫害後、近辺や平戸や下五島などから移住してきた人々であるという。1907年にようやく、現在の木造教会が建つ。近くの丸尾郷出身の鉄川与助が棟梁となって初めて手掛けた教会である。
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山田教会
1878年から平戸方面も担当したペルー神父の働きによってようやくカクレキリシタンからカトリック信徒となる人々が現れた地区。もっと見る
1912年に鉄川与助の設計・施工でレンガ造の現教会が建てられた。 -
旧鯛ノ浦教会
外海の出津から移住して来たキリシタンの子孫にはじまる集落で、五島崩れで迫害を受けた。1880(年ブレル神父が赴任して上五島の司牧の拠点となる。1903年建立の教会の老朽化により、1979年、旧教会の下の幼稚園跡地に新教会が建てられた。旧教会は終戦間近、海軍に接収された。戦後、復員などで手狭になり、1949年に増築した。このとき、レンガ造の塔が正面につけられた。旧浦上天主堂の被爆レンガを一部使用している。もっと見る -
青砂ヶ浦教会
青砂ヶ浦にいつごろからキリシタンが住んだか不明だが、1878年頃には初代教会があったという。1899年から青砂ヶ浦が上五島の中心の教会となった。1910年建立の現教会は、鉄川与助設計施工によるもので、信徒が総出でレンガを運びあげた3代目の教会となり、2001年に国指定重要文化財、2010年に献堂100周年を迎えた。もっと見る -
田平天主堂
もっと見る田平天主堂は、1886年以降、ラゲ神父やド・ロ神父が買い取った土地に黒島、外海から移住した信徒によってはじまる。1918年、信徒たちは、中田藤吉神父の奔走による寄付に助けられ、鉄川与助が設計・施工した最後のレンガ造教会を建てた。
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浦上教会
もっと見る浦上教会(浦上天主堂)は、1873年、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上の信徒達によって建設が計画されました。ところが資金がなかなか集まらず、20年余りの時を経た1895年にようやくフレノ神父の設計による教会の建設が開始され、1914年に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられました。
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十字架山
浦上四番崩れの流配から戻った浦上の信徒は、絵踏みをしたことを罪として償い、そして信仰を表明できることに感謝して、1881(明治14)年、当地の丘を購入して十字架を建てた。もっと見る
関連モデルコース
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