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元寇の遺産を巡る:鎌倉武士の抗戦~海に眠る蒙古襲来の遺跡-1

元寇の遺産を巡る:鎌倉武士の抗戦~海に眠る蒙古襲来の遺跡

元寇(蒙古襲来)は、アジアからヨーロッパの一部まで版図を広げたモンゴル帝国(当時の元)が2度にわたって日本に侵攻した出来事です。令和6年(2024)は、最初の侵攻である「文永の役」(1274)から750年となります。

近年、元寇をテーマとした漫画「アンゴルモア元寇合戦記」やゲーム「Ghost of Tsushima(ゴーストオブ・ツシマ)」が大人気となり、それらを通して対馬や壱岐が戦いの場であったことを知ったという方もいることでしょう。

さらに、松浦市鷹島(たかしま)沖では、海底遺跡から元の沈没船が発見され、いかりの引き揚げが行われたことも記憶に新しいところです。

長崎県の関連地である松浦・壱岐・対馬における元寇に関する最新の調査成果について、本特集で紹介します。

元寇(蒙古襲来)とは

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    掲載画像:土佐長隆 ほか『蒙古襲来合戦絵巻』[2],写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2591515を加工して作成

     

    元寇(げんこう)は、13世紀後半に、モンゴル帝国(元)が日本に侵攻を試みた出来事です。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の二度にわたって侵攻を受けました。

    元寇が起きた背景には、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハンの死後、その孫であるフビライ・ハンが元を建国し、周辺地域の征服を進めたことがあります。フビライ・ハンは、東アジア全域を支配する野心を抱き、日本もその支配下に置こうと目論みました。日本は鎌倉時代、8代執権北条時宗の治世下です。フビライは外交交渉のため日本へ国書及び使者を送りますが、幕府は黙殺していました。

     
    文永の役
    元寇の初めての侵攻「文永の役」は、元の軍船約900隻の大軍が対馬・壱岐を襲い、その後、博多に上陸して激しい戦いを繰り広げました。苦戦を余儀なくされた幕府軍は、仕方なく撤退しました。元軍も夜には船に戻っていきましたが、翌朝、博多湾には元軍の軍船が見当たらず、「神風」と呼ばれる風雨により元軍は引き上げたといわれています。しかし、近年では、実は計画的な引き上げだったのではという説が有力だといわれています。「文永の役」を機に、幕府は博多湾を含む九州の守りを強化するため石築地と呼ばれる石塁(元寇防塁)の構築を命じました。

     
    弘安の役
    そして1281年、二度目の「弘安の役」では、14万人あまりの元軍が再度日本に侵攻しました。元軍は戦力強化のため、東路軍と江南軍の二手に分かれて博多を攻めます。しかし、日本軍が石塁を築いて防戦したことで上陸に失敗した東路軍は一度撤退し、全軍で博多を攻める計画を立てます。

    平戸沖で合流した東路軍と江南軍は、博多に向かう途中に鷹島沖で停泊していました。そこで暴風雨が九州に襲来。元の軍船は軒並み沈没し、壊滅的な打撃を受けました。


    松浦市鷹島沖の鷹島海底遺跡からは元の沈没船をはじめ、刀剣などの武器や武具、鎌倉時代の絵巻物「蒙古襲来絵詞(えことば)」に描かれている元軍の武器「てつはう」など、多くの遺物が見つかっています。

元寇(蒙古襲来)経路図<文永の役、弘安の役>

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    「国指定史跡鷹島神崎遺跡保存管理計画書」松浦市教育委員会2014より

近代における元寇(蒙古襲来)

舞台となった場所で物的な手がかりを探してみると、明治期から昭和の初めにかけて祀られた神社、銅像や石碑などの祈念碑、元軍(蒙古軍・高麗軍)の侵攻から神風による敗退までを描いた絵画など、比較的新しい時代のものが多いことに気づきます。福岡市の「元寇防塁」そのものは往時のものですが、これら近代の記念物は時の歴史考証にもとづくもの、という前提で接する必要があります。

  • 【対馬】小茂田浜神社鳥居(大正13年)-1

    【対馬】小茂田浜神社鳥居(大正13年)

    文永11年(1274)の元・高麗軍襲来により、宗資国(そうすけくに)以下戦死した将士の霊を祀った神社。

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  • 【壱岐】平景隆の墓(新城神社)-1

    【壱岐】平景隆の墓(新城神社)

    新城神社は、文永の役で戦死した壱岐の守護代・平景隆の本陣であった樋詰城跡(ひのつめじょうあと)にあります。景隆をはじめ、元寇で殉難した将兵諸神を安置しています。

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  • 元寇防塁(福岡市)-1

    元寇防塁(福岡市)

    福岡市早良区の西南学院大学付近

    参考サイト

松浦市で元の沈没船がみつかる!水中と陸上からのアプローチ

長い間、元寇に関する直接の物証としては、博多湾岸にのこる元寇防塁が知られているのみでしたが、昭和49年(1974)に松浦市鷹島の海岸で元軍の「管軍総把印(かんぐんそうはいん)」がみつかり、昭和55年(1980)からは海底遺跡の調査が始まりました。近年は、元の沈没船がみつかるなど水中からのアプローチが本格化しています。

このほかにも、対馬には文献から元軍が上陸したと考えられる佐須浦があり、壱岐にも県の史跡に指定されている「文永・弘安の役」の古戦場があります。これまで発掘調査が行われたことがなかったこれらの遺跡について、今回初めて考古学的な発掘調査を行いました。

さらに、壱岐には元軍との関連も伝えられる海底から引き揚げられたいかり石などがあります。調査を通して「蒙古襲来」と関わりのある仏像の存在も明らかになってきました。

  • 管軍総把印(かんぐんそうはいん)-1

    管軍総把印(かんぐんそうはいん)

    元のパスパ文字で刻字されています。下級将校クラスのもの

  • 海底での調査風景-1

    海底での調査風景

【松浦市】「弘安の役」と鷹島

「文永の役」の失敗から7年後の弘安4年(1281)、元のクビライ(フビライ)は再度の日本への侵攻を企て、高麗から発した東路軍と中国南部を発した江南軍が7月に平戸、鷹島沖で合流しました。そこから博多湾を目指そうとしましたが暴風雨(神風といわれる)となり、多くの軍船が沈んだという記録があります。

鷹島では、昭和55年(1980)に初めて水中調査が実施され、その後40年以上にわたって継続的に調査が行われており、平成23年(2011)には、琉球大学(現:國學院大學)池田榮史教授を代表とする研究チームによる調査で、水深約23mの海底から元の軍船のものと考えられる船底(竜骨と外板)が発見され、「鷹島1号沈没船」と命名されました。
翌年3月には、これまでの調査・研究の成果から鷹島海底遺跡の一部である神崎港沖約384,000㎡が、「鷹島神崎(こうざき)遺跡」として海底遺跡では初めて国の史跡指定を受けています。

  • 鷹島の位置-1

    鷹島の位置

元の軍船の「いかり」を引き揚げる!

令和4年(2022)10月1日、「弘安の役」から約740年ぶりに「一石型木製いかり」が海上に姿を現しました。いかり引き揚げに係る調査は、9月15日から10月5日にかけて実施しました。

鷹島の南岸海域は「鷹島海底遺跡」として、弘安の役(1281年)に元軍の船団が暴風雨で沈んだ場所として知られています。引き揚げた「一石型木製いかり」は、碇石が一つで歯のついた木材で挟み込む構造となっており、鷹島海域では初めての出土例です。これまで鷹島では、36個の碇石が見つかっていますが、全て2つの石を組み合わせる分離型でした。

  • 海底での様子(いかり木材)-1

    海底での様子(いかり木材)

  • 海底での様子(いかり石)-1

    海底での様子(いかり石)

元寇船の「いかり」引き揚げの記録

発掘調査の財源には、国県の補助金だけでなく、ガバメントクラウドファンディング(GCF)で募った資金を活用しています。令和2年(2020)11月20日から翌年2月17日まで「海底に眠る歴史!元寇のタイムカプセル引き揚げプロジェクト~過去を現代に!そして未来へ残せ!~」と題し寄付を募りました。目標金額1,000万円に対し、全国229名の方々から目標を上回る1,152万3千円の寄付が集まりました。特典の1つとしていた「木製いかり引き揚げ見学ツアー」には全国から59名の応募があり、うち34名が、引き揚げの瞬間に立ち会いました。

  • 引き揚げたいかり-1

    引き揚げたいかり

  • いかり石引き揚げの様子-1

    いかり石引き揚げの様子

引き揚げられた「一石型木製いかり」

今回引き揚げたのは「一石型木製いかり」。
鷹島1号沈没船から北西に約100mの位置にありました。「一石型木製いかり」は、平成25(2013)年に水深約20mの海底で確認されました。
いかり実測図


図①:いかりの木材部分(レの字の部分)は幅25㎝、長さ175㎝、重量157.5㎏です。

図②:碇石は、長さ230㎝、中央部分が最も広く約50㎝、厚さ35㎝、先端部分の幅約20㎝、厚さ約15㎝です。 

図③:碇石の北側にあった幅・厚さ15㎝、長さ80㎝の石材も引き揚げを行いました。 

図④:碇石を挟んで、いかりの木材の延長上に幅約20㎝、厚さ約15㎝、長さ約50㎝の角材が検出されており、今回引き揚げを行いました。 












 

コラム

\現地レポート/【松浦市・鷹島】養殖マグロと元寇の島に行ってきた!ロマンと食のショートトリップ★-1

\現地レポート/【松浦市・鷹島】養殖マグロと元寇の島に行ってきた!ロマンと食のショートトリップ★

今回訪れたのは、福岡市や佐賀市から車で1時間半の場所にある松浦市・鷹島。養殖トラフグや養殖マグロの産地として名高い、海に囲まれたのどかな島ですが、実は「元寇の地」でもあるんです。現在、鷹島では、今から700年以上前に沖合に沈んだ元の船を引き揚げるプロジェクトが進んでいます。歴史とロマンのつまったこの島で、おいしい食を堪能しながらめぐるショートトリップへ!

元寇の島へショートトリップ

【壱岐】「文永の役」の記憶

  • 『壱岐名勝図誌』より「樋詰城墟」-1

    『壱岐名勝図誌』より「樋詰城墟」

    右下に「城墟」(樋詰城)が描かれています

「文永の役」における壱岐侵攻について、当時の古文書(八幡愚童訓)には、「島の西側に蒙古の船が着き四百人ほどが上陸、守護代平景隆(たいらのかげたか)が家人百人と『庄の三郎が城』で応戦したものの敗れて自害」とあります。これ以上に詳しい文献はなく、戦いにちなんだ場所や地名の多くは伝承として受け継がれました。江戸時代の古文書(壱岐國續風土記)では、「『庄の三郎が城』は勝本町新城の樋詰城である」としています。これを根拠として明治期に平景隆の墓と新城神社が祀られたのです。

  • 絵葉書「平景隆一門自刃スルノ図」-1

    絵葉書「平景隆一門自刃スルノ図」

    原画:矢田一嘯
    明治末から大正頃、福岡市東公園にあった
    元寇パノラマ館発行の絵葉書

  • 新城神社古写真(絵葉書)-1

    新城神社古写真(絵葉書)

    右端の鳥居は大正6年(1917)奉献なので大正から昭和初期の写真です。

県指定史跡「文永の役新城古戦場」とは

壱岐市勝本町の新城東触には「千人塚」があり、「文永の役」の歴史的意義を後世に永く伝える顕彰地として昭和50年(1975)に県の史跡に指定されています。指定の委員であった小島小五郎(国立歴史民俗博物館)は、当時の文献(八幡愚童訓)に記された平景隆が自刃したとする「庄ノ三郎が城」の場所は、現在の新城神社(樋詰城)であるとは確定できないとしつつ、伝承や地形などから付近一帯が激戦の地であったことは疑いないとし、千人塚の指定について了承しています。当時の指定は、文献・伝承・地形などを根拠として行われ、発掘調査は行われていませんでした。

  • 文永の役新城古戦場-1

    文永の役新城古戦場

    1274年(文永11年)におきた文永の役で、元軍は勝本町北西部の浦海(うろみ)と天ヶ原の両海岸に上陸し、壱岐の守護代だった平景隆の居住がある新庄(新城)に攻め込みました。このあたりは最後の激戦地であったとみられ、その一画に千人塚があります。千人塚の中央に元寇殉国忠魂塔が建ち、左脇には観音像、右脇に本来の千人塚の標石である自然石が2基あります。
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コラム

【特集】元寇に立ち向かった壱岐のヒーローたち-1

【特集】元寇に立ち向かった壱岐のヒーローたち

鎌倉時代に、日本が外国から本格的な侵攻を受けた事件がありました。「元寇」です。歴史の教科書では、日本の武士たちが博多湾で懸命に戦い、最終的には神風が吹いて元軍が退散したといわれていますが、博多湾での攻防に先駆けて、壱岐では元軍との決死の戦いが繰り広げられていたことはあまり知られていません。島を守るため、国を守るため、果敢に戦った壱岐のヒーローたちの足跡をたどりながら、壱岐に伝わる元寇の物語に想いを寄せてみませんか。

特集記事へ

初の発掘調査~新城神社と唐人原~

「文永の役」の痕跡を発掘調査から探るために選んだのは、明治期に平景隆の墓が祀られ、新城神社が創建された樋詰城と、地名から蒙古との関係がうかがわれる唐人原です。樋詰城では、拝殿や本殿の周辺で発掘を行いましたが、戦いの痕跡を裏付ける遺構や遺物はみつかりませんでした。また唐人原も水田に突き出た低い台地の斜面で発掘を行いましたが、同様な成果でした。今回の結果だけで、すべてを判断することはできませんが、乏しい文献史料や伝承にもとづいた近代における場所の推定に一石を投じるものと言えるでしょう。

  • 発掘風景-1

    発掘風景

平景隆と長徳寺の阿弥陀如来像 ~「文永の役」に遭遇した仏像~

木造阿弥陀如来立像 芦辺町長徳寺の「木造阿弥陀如来立像」は平安時代末期の作で、長崎県指定有形文化財に指定されています。

  郷土史家の山口麻太郎は、長徳寺の前身である見性寺は、瀬戸浦の船匿城を居城とした守護代平景隆の持仏堂であったと推測しています。

 この仏像が平景隆の持仏として「文永の役」に遭遇したとすれば、「蒙古襲来」に関わる間接的な物証として見直すことができるかもしれません。







 

 

芦辺港周辺のいかり石

壱岐東岸の芦辺港の周辺では、帆船時代のいかり石が複数みつかっています。
海底から引き揚げられたものですが、現在は供養塔や墓標、ご神体などに転用されているもののほか、壱岐神社には「元寇いかり石」と伝えられるものがあります。実際に元の軍船に使われていたものかどうか判明していませんが、複数のいかり石が遺されていることは、芦辺浦が古くから海上交通の要衝であったことを示しています。弘安4年(1281)の「弘安の役」の際には、肥前の御家人龍造寺氏が瀬戸浦で蒙古軍と戦った記録があり、付近に蒙古軍が襲来していたことは確かなようです。

【対馬】「文永の役」と対馬

文永11年(1274)10月3日、元軍は対馬の佐須浦に侵攻しました。対馬の地頭代宗資国(そうすけくに)は、少数の手勢で応戦しましたが敗れました。元軍は、その後、壱岐から博多湾へと侵入し、日本勢との激戦が行われましたが、10月21日には突然姿を消したとされます。このことから、元軍による対馬の占領は、20日間ほどであったと考えられます。佐須の下原には、宗資国の墓と伝えられる「お首塚」が、樫根の法清寺には「お胴塚」がありますが、これらについては江戸時代の古文書に記載されておらず、その型式も新しいことから後世の供養塔であると考えられます。

  • 宗資国胴塚古写真(絵葉書)-1

    宗資国胴塚古写真(絵葉書)

    昭和13年(1938)対馬要塞司令部許可とあります

  • 絵葉書「宗資国討死スルノ図」 原画:矢田一嘯-1

    絵葉書「宗資国討死スルノ図」 原画:矢田一嘯

元軍の上陸地点はどこか

現在、佐須浦において元軍の上陸地として広く知られているのは、小茂田浜です。その地にある小茂田浜神社は宗資国を祀り、もとは軍大明神と呼ばれました。
神社がある砂丘の内側は、江戸時代に干拓されたもので、その前は遠浅の海岸で、満潮時には川にそってかなり奥まで船が入る入江だったと考えられています。このため、蒙古軍が上陸した「佐須」は現在の小茂田浜ではなく、より上流であったと考えられます。江戸時代の国学者である藤仲郷は、神田原(現在の金田小学校付近)と考え、これを支持する永留久恵氏は、宗資国は下原の若御子神社の前に布陣したと推測しています。

佐須関連位置図



 

コラム

古道「蒙古襲来!宗助国、決戦への道」について-1

©対馬観光物産協会

古道「蒙古襲来!宗助国、決戦への道」について

対馬市厳原町中心部は、律令時代(7世紀後半ころ)に国府が置かれ、いまでも対馬市役所や国・県の機関、厳原港などが集中しています。山を越えた西側の佐須は、「日本書紀」によると674年(天武天皇2年)に日本最初の銀が産出し、また元寇(蒙古襲来・文永の役)の舞台になるなど、激動の歴史が刻まれた地域です。
※佐須は、小茂田(こもだ)、下原(しもばる)、樫根(かしね)などの総称です。
佐須と厳原を結び、銀の運搬にも使われていた峠道が佐須坂道で、元寇の際、守護代・宗助国公とその一族は、この道を通って決戦の場・佐須浦(小茂田浜)に向かいました。

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  • 小茂田浜神社のある砂丘の内側-1

    小茂田浜神社のある砂丘の内側

    船溜まりの奥は江戸時代に干拓されたものです

  • 小茂田浜神社(大祭)-1

    小茂田浜神社(大祭)

    毎年11月第2日曜に大祭が行われ、鎧武者を先頭にした「武者行列」が浜まで歩き、御旅所で神事と弓射りが行われ、海に向かって武士大将が「エイエイ」と采配を振るえば太鼓と武士が「オーオー」と呼応します。

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発掘調査の成果~下原と樫根~

発掘調査は、これらを踏まえて佐須川を挟んだ下原と樫根から適地を選びました。下原は、若御子神社の側と龍泉寺前付近の2箇所、樫根は、公民館の前とやや西側の2箇所を調査することにしました。その結果、下原の龍泉寺前から、鎌倉時代の中国産や国産の土器、陶磁器のほか、焼土(火を受けて焼けた土)がみつかりました。これらが「文永の役」と直接結びつくかどうかについては慎重な検討が必要ですが、蒙古軍の侵攻が推定される場所で、同時期の物証が発見された意義は大きく、今後のさらなる解明が期待されます。

  • 出土遺物-1

    出土遺物

  • 焼土(中央の赤い土)-1

    焼土(中央の赤い土)

「佐須」の歴史を見直す~法清寺観音堂の木彫仏像群~

蒙古軍が上陸した佐須は、弘仁4年(813)にも刀伊(女真族)の賊が来襲しており、古くから銀山(鶴野)を有する重要な浦であったためと考えられます。佐須・樫根の法清寺観音堂には、16体の木彫仏像が伝わっています。これらは、江戸時代以前、鶴野の観音堂にあったもので、かつては「蒙古仏」と呼ばれ蒙古が攻めてきたときに海岸に漂着したものと伝えられていました。これらは昭和48年(1973)と昭和63年(1988)に長崎県の有形文化財に指定されましたが、その際に行われた調査で、平安時代中期から末期の国内産であることが判明しました。鶴野銀山の繁栄とともに造られ、「蒙古襲来」にも遭遇したものと考えられます。かつて仏像が伝わった鶴野と今回発掘成果があった下原龍泉寺前、宗資国の塚や銀山跡なども含めて一体的な視点で「佐須」を見直すことで、豊かな歴史を体感できることでしょう。

  • 調査風景-1

    調査風景

    写真の右側が龍泉寺方向です

  • 法清寺観音堂-1

    法清寺観音堂

    明治21年(1888)に下原村鶴野の観音堂より木彫仏像群が移されました

  • 木彫仏像群-1

    木彫仏像群

    長崎県の文化財

歴史的出来事と「聖地巡礼」

松浦・壱岐・対馬における「元寇(蒙古襲来)」の痕跡について最新の調査研究の成果を紹介してきました。水中に加えて陸上でも元軍の攻撃による可能性を示す痕跡を発見することができました。こうした水陸の痕跡は、海から侵攻してきた元軍の動きを直接示す物証であり、一体的に捉えていくことでその全貌が明らかになるものと期待されます。また、これらの痕跡は、小説・漫画・ゲームなどのストーリーにおける創造の真の源でもあり、歴史的出来事を直接物語る現場(いわゆる「聖地」)であるとも言えます。これらを巡る新しい旅に出かけてみましょう。

現地を訪ねると共に、 以下の関連施設でも様々な歴史を体感できます。

  • 松浦市立埋蔵文化財センター-1

    松浦市立埋蔵文化財センター

    昭和55年から開始された鷹島周辺の海での遺物調査と引き揚げ作業によって、数多くの貴重な元寇遺物が発見されています。長い間海底に埋もれていた遺物は、引き揚げてそのままにしておくと、腐食したり、塩分の結晶化に伴う変質、さらには急激な乾燥による収縮、変形を起こします。これを防ぐため埋蔵文化財センターでは、脱塩・保存処理などの作業を行い遺物の保存に万全を期しています。

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  • 壱岐市立一支国博物館-1

    壱岐市立一支国博物館

    原の辻遺跡を一望できる小高い丘に建ちます。緩やかな曲線を描いた屋根は全面緑化され、周辺の山並みにも溶け込んでいます。その斬新な外観をカメラにおさめる人が後を絶ちません。
    常設展示室では、原の辻遺跡をはじめ、島内に点在する遺跡や古墳から出土した貴重な実物資料を約2000点展示し、一部の資料は持ち上げて重さを体感することができます。

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  • 対馬博物館-1

    対馬博物館

    古代から現代まで、朝鮮半島をはじめとするアジア諸地域や日本本土と活発な交流を行ってきた対馬。対馬の歴史や考古、美術、民俗、自然など多岐にわたる資料を展示し、アニメーションなどを使ってわかりやすく紹介しています。対馬藩主宗家が残した藩政記録「宗家文書」の一部など資料約500点をはじめ、全国でも類を見ない稀有な歴史資料等は必見です。

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この特集は『「蒙古襲来」の痕跡を探る~水中と陸上からのアプローチ~』(令和5年11月発行:長崎県・松浦市・壱岐市・対馬市パンフレット)を基に制作しています。

 

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