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倭寇ゆかりの地 (小手ノ浦) (わこうゆかりのち)

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『倭寇』とは、鎌倉末期(13世紀)から室町・戦国時代にかけて、朝鮮半島や中国沿岸を荒らしまわった海賊の呼称である。
倭寇には「前期倭寇」と「後期倭寇」があり、14~15世紀半ばの前期倭寇は、平戸・五島・壱岐・対馬の土豪・土民が主であったとされ、侵攻の対象は高麗(朝鮮半島)だった。
それ以降の16世紀の倭寇を後期倭寇とし、王直のように中国人(明国)が行っていた。
『王直』とは明の海賊王で、「ポルトガル」商人の貿易を手助けしたり、数千の部下と数百の船を率いて海上を暴れまわっていました。
天文9年(1540)、王直は二千人の部下を引き連れて福江島へやってきて通商を求めました。
その木造船の大きさはまるで木の城のようで、櫓(やぐら)が四門もあり、二千人は乗れたといわれており、この船で広東を中心に日本、シャム、西洋諸国を往来し、貿易をしたり盗品をさばいていました。
王直は五島の第十七代宇久盛定に謁見。 盛定は通商を許し、現在の五島市唐人町一帯を居館として与えました。 今も倭寇の遺跡として、海の守護神を祀る「明人堂」や「六角井戸」が残されています。
2年後の天文11年(1542)、平戸領主の松浦鎮信の要請により、王直は平戸に移り、勝尾岳の中腹に居宅を与えられ、これを印寺屋敷と称しました。
その後、明の海禁をきっかけに王直は五島を起点に倭寇活動に転じ、天文19年から23年(1550~1554)までの5年間、王直は当時平戸領であった浜ノ浦、飯ノ瀬戸を領主の許しを得て、基地としました。

※種子島にポルトガル船が入港し鉄砲が伝来したのが天文12年(1543)。
 そのとき王直は「我明国之儒生而名五峰」と名乗っています。(五峰とは五島のことです。)
 王直はポルトガル商人の貿易を手助けしていたため、種子島より先に鉄砲が伝来していたのかもしれないとも言われています。
 明と激しく対立した王直は、明に捕えられ、永禄元年(1558)杭州城外で処刑される。

現在、小手ノ浦沿岸には石塁・空堀跡があり、これは山城が築かれていた跡である。周辺には寺屋敷跡や墳墓跡等もあり、船隠・念崎・呼出などの地名も残されている。
小手ノ浦湾は、串島によって外洋から遮蔽(しゃへい)され、船団基地として諸条件が備わった天然の良港で、東シナ海に面し、平戸との通行に便利であった。

基本情報

住所 〒857-4414 長崎県南松浦郡新上五島町飯ノ瀬戸郷

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