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長崎基本情報

長崎の学問と伝習所

日本の学問・文化の起源、長崎

江戸時代には、西洋や中国の最新情報が集まる長崎には、全国各地からたくさんの遊学者が集まり、医学、天文、地理、詩歌、書、絵画など、その分野は多岐にわたりました。
長崎で生まれた蘭学や、洋風画、南画なども遊学者たちによって日本全国へと広がっていきました。
専門分野を修め、長崎で見聞を広めた彼らは、後に日本の歴史を動かす原動力となり、また地方文化振興の立役者となったのです。

新たな学問や思想を広めた知の哲人たち

長崎に海外からもたらされた最新の学術文化は、西洋文化であれば阿蘭陀通詞によって、中国文化であれば唐通事・来舶清人を通じて、遊学者たちに伝授されました。
特に蘭学は、彼らが長崎で研鑽を積んで習得したものを、新たな学問や思想として江戸で広めたものです。

平賀源内(香川県)
平賀源内(香川県)

大槻玄沢(岩手県)
大槻玄沢(岩手県)

高野長英(岩手県)
高野長英(岩手県)

緒方洪庵(岡山県)
緒方洪庵(岡山県)

瀬山陽(広島県)
瀬山陽(広島県)

シーボルトと門下生

シーボルトと門下生

文政6年(1823)、出島のオランダ商館医として来日したシーボルトは、長崎郊外の鳴滝に診療所兼学舎(鳴滝塾)を開設。語学はもちろん、医学や自然科学など一定のレベルがなければシーボルトに学ぶことができませんでした。

門下生
伊東玄朴:東京大学医学部の前身、神田お玉ヶ池種疱痘所設立者の一人であり、取締役を務める。
伊藤圭介:明治14年(1881)、東京大学理科の教授となり、日本で最初の理学博士となる。
二宮敬作:富士山の高さを測定。日本初の洋式測量。シーボルトの娘いねの養育を託された。
高野長英:優れた翻訳能力。シーボルトの一番弟子。著書・訳書は49部300巻にも及ぶ。
美馬順三:鳴滝塾初代塾頭。シーボルトを通して産科の論文がヨーロッパで掲載される。日本人初と言われている。

芸術・文化の革新者たち

江戸時代に全国的に流行した書画などの芸術文化は、長崎にもたらされた中国の絵画や書、西洋の絵画などの技法を、唐通事や来舶清人、阿蘭陀通詞などを通じて、遊学者たちが修得、江戸をはじめ全国に広まりました。

西山宗院(熊本県)
西山宗院(熊本県)

小林一茶(長野県)
小林一茶(長野県)

富岡鉄斎(京都府)
富岡鉄斎(京都府)

幕末~明治維新の立役者たち

開国後、わが国の近代化を江戸幕府によって推しすすめるのか、天皇を中心とした新しい国家ですすめるのか、日本を二分しての争いとなりました。立場は分かれてしまいましたがそれぞれの中心メンバーとなったのは、長崎で学識見聞を広めた遊学者たちでした。

吉田松陰(山口県)
吉田松陰(山口県)

勝海舟(東京都)
勝海舟(東京都)

榎本武揚(東京都)
榎本武揚(東京都)

高杉晋作(山口県)
高杉晋作(山口県)

後藤象二郎(高知県)
後藤象二郎(高知県)

坂本龍馬(高知県)
坂本龍馬(高知県)

木戸孝允(山口県)
木戸孝允(山口県)

日本の近代化を推進した人々

遊学者たちは、長崎の私塾や幕府が開いた伝習所で、いち早く西洋の学術文化を修得しました。彼らは幕末から明治にかけて、迫り来る西洋諸国に対抗するために、急務とされた日本の近代化を積極的に推しすすめ、日本の植民地化を未然に防ぎました。

中江兆民(高知県)
中江兆民(高知県)

佐野常民(佐賀県)
佐野常民(佐賀県)

福沢諭吉(大分県)
福沢諭吉(大分県)

大隈重信(佐賀県)
大隈重信(佐賀県)

西園寺公望(京都府)
西園寺公望(京都府)

伊藤博文(山口県)
伊藤博文(山口県)

前島密(新潟県)
前島密(新潟県)

井上馨(山口県)
井上馨(山口県)

岩崎弥太郎(高知県)
岩崎弥太郎(高知県)

長崎の学問と習所

19世紀、日本近海に近代装備の外国船が現れるようになると、国防強化の必要に迫られた幕府により、長崎には「海軍伝習所」「医学伝習所」「英語伝習所」が設置されました。
これら長崎の伝習所の教えは、その後、急速に近代化へと舵をとった日本の科学技術発展の礎となりました。

海軍伝習所と長崎製鉄所

海軍伝習所

対外危機に直面した幕府はオランダの支援を受け、海軍の養成所「海軍伝習所」を設立。幕命を受けた多くの伝習生が長崎を訪れ、オランダ人教師たちから、蒸気機関、航海術や運用術、物理などの近代技術を学びました。

長崎製鉄所

また、海軍の技術を習得するにつれて、船の建造や補修の技術が必要となり、長崎製鉄所が設立され、日本の造船業の幕が開けました。
明治政府の誕生とともに官営となり、後に岩崎弥太郎が政府から払い下げを受けて、民間経営となり、現在の三菱重工業長崎造船所に至っています。

医学伝習所

医学伝習所

幕医だった松本良順は、第二次海軍伝習の教官として赴任したオランダ海軍軍医ポンペにオランダ医学を学ぶため、長崎へ向かいました。良順が全国から集まった他藩の医師や町医らも共にポンペの講義を受けることができるよう取り計らい、公には禁止されていたオランダ医学の講義が、表向きは海軍伝習という名目で長崎奉行所西役所(現長崎県庁)の一部屋で開始されました。これが医学伝習の始まりであり、近代西洋医学の始まりとされています。

長崎大学医学部の歴史

オランダ軍医のポンペ・ファン・メールが、長崎奉行所内の医学伝習所で西洋医学の教育を開始した11月12日。この日が日本における西洋医学教育の始まりであり、長崎大学医学部の創立記念日となりました。

1857年 医学伝習所にてポンペが西洋医学教育開始
1861年 「養生所・医学所」設置
1862年 ポンペの後任としてボードインが養生所教頭就任
1865年 「精得館」設置(養生所・医学所の変遷)
1868年 「長崎府医学校」設置(精得館の変遷)
1871年 「長崎医学校」設置(長崎府医学校の変遷)
1874年 「長崎医学校」廃止
1878年 「長崎医学校」再興(吉田健康が再興)
88年、第五高等中学校医学部に変遷
94年、第五高等学校医学部に変遷
1901年 「長崎医学専門学校」設置(第五高等学校医学部の変遷)
1923年 「長崎医科大学」設置(長崎医学専門学校の昇格による名称変更)
1940年 「臨時附属医学専門部」併置 4年後「附属医学専門部」と改称
1942年 「附属東亜風土病研究所」設置(現熱帯医学研究所の前身)
1945年 長崎医科大学・附属医院壊滅状態
1949年 「長崎大学医学部」設置
1955年 「大学院医学研究科」設置
1962年 「原爆後障害医療研究施設」設置
2001年 「医学部保健学科」設置
2002年 「大学院医歯薬学総合研究科」設置
2007年 医学部創立150周年

英語伝習所

英語伝習所

英語伝習所は、岩原目付屋敷内(現長崎歴史博物館付近)に開設されました。オランダの海軍将校ウイッヘルスらが教授となり、唐通事、阿蘭陀通詞、地役人の子弟らが教育を受けました。英語だけだった学習科目に、やがてフランス語やロシア語が加わり、さらには地理、歴史、数学、物理、科学、天文、経済など、さまざまな学科を学ぶことができるようになり、長崎は諸科学の発信地となりました。

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