

長崎県の歴史は、佐世保市吉井町の福井洞穴の発掘調査により、3万年以上も前の旧石器時代までさかのぼります。
地元の中学生が発見した佐世保市瀬戸越町の泉福寺洞穴では、わが国最古に近い1万3千年前の「豆粒文(とうりゅうもん)土器」(国重要文化財)が出土しました。
対馬市峰町の佐賀(さか)で行われた縄文時代の貝塚の発掘調査によって、佐賀の縄文人が海を渡って積極的に各地と交易を行っていたことがわかりました。

壱岐市芦辺町と石田町にまたがる原(はる)の辻遺跡は、南北750m、東西350mの楕円形の台地を囲むように三重の濠をめぐらした、弥生時代前期末から後期にかけての環濠集落であることがわかっていますが、この原の辻遺跡は「魏志倭人伝」に書かれた一支(いき)国の中心(王都)と考えられています。

長崎県内には500基余りの古墳があるといわれていますが、壱岐だけで250基余りも見つかっており、古墳時代、壱岐には、豪族など身分の高い人が多く住んでいたことがうかがわれます。

大和政権は、唐・新羅がわが国に攻めて来るのを防ぐため、対馬に朝鮮式の山城・金田城を作り、東国地方の人々が防人として、その任にあたりました。

遣唐使船は初め、壱岐・対馬を通って朝鮮半島沿いに進む北ルートでした。遣唐使船には、天台宗を開いた最澄と、真言宗を開いた空海が乗り込み、五島を通って中国に渡っています。

海の豪族、松浦党が起こり、当初は交易や漁業を中心に活動していましたが、13世紀頃から倭寇として恐れられる存在になりました。
文永11年(1274)と弘安4年(1281)の2回、元と高麗の連合軍が、わが国に襲来しました。元寇と呼ばれています。現在の対馬・壱岐・鷹島・平戸などで激しい戦いが繰りひろげられました。

天文19年(1550)、1隻の大きな帆船が平戸の港に現れました。これは日本との交易を望むポルトガルの貿易船でした。これ以後、長崎県域はヨーロッパ文化と関わることになります。
また、スペインの宣教師、フランシスコ・ザビエルが平戸を訪れ、平戸領主が領内でのキリスト布教を許したので、教会も建てられました。

天正8年(1580)、島原半島を支配していた領主、有馬晴信がキリスト教の洗礼を受けて以来、有馬・口之津を中心に信者が増え、神学校(セミナリヨ)が設けられるなど、キリシタン文化が繁栄しました。しかし、天正15年(1587)、豊臣秀吉がバテレン追放令を発布して、九州でのキリスト布教が禁止されました。

江戸幕府も、慶長17年(1612)からキリシタンへの弾圧を強化しました。慶長19年(1614)に島原半島で厳しい弾圧が行われたことをきっかけに、たまりかねた農民らが寛永14年(1637)、一揆を起こし、これに呼応して、天草の農民らも一揆を起こし、島原の農民と合流しました。この一揆軍は、天草四郎時貞を総大将として、3万7千人にのぼり、原城に立てこもり、翌年12万人もの幕府軍によって全滅させられました。これが「島原の乱」です。
鎖国下の日本では、ヨーロッパの先進文化を受け入れるただ一つの窓口が、長崎の出島になり、ヨーロッパの文化を学びたいと思う人にとって、長崎はあこがれの地となりました。

トーマス・グラバーは、長崎県の近代産業の基礎を築いた一人です。明治政府は、造船業を盛んにするために、幕府がつくった鎔鉄所と、グラバーから買い入れた修船場を合わせて、明治4年(1871)、官営の長崎造船所をつくりました。わが国の造船業を代表する三菱重工業長崎造船所の始まりです。

昭和20年(1945)8月9日、米軍の爆撃機が落とした一発の原子爆弾で長崎の町は、灰燼に帰しました。戦後、長崎は、歴史的な大惨禍に見舞われながらも、奇跡的な復興を遂げ、平和都市として生まれ変わりました。