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歴史めぐり

防人と烽(とぶひ)

「金田城(かなたのき)」の山頂から防人も見たであろう水平線を望む

「金田城(かなたのき)」の山頂から防人も見たであろう水平線を望む

白村江の戦い 防人が国境をにらんだ古代要塞

7世紀、朝鮮では百済・新羅・高句麗の三国が抗争を繰り広げていました。百済と同盟関係にあった日本は朝鮮半島に援軍を送りますが、白村江の戦いで大敗。この敗戦で対馬は国防の最前線となり、唐や新羅の侵略に備えて防人・烽(とぶひ:外敵襲来を知らせるために火を燃やし煙を立てた施設)を設置しました。金田城(かなたのき)は城山を利用して築かれた古代山城の一つで、壱岐を経由して大宰府までの通信体制を確立しました。天然の地形を利用した古代要塞「金田城」を歩き、当時に思いを馳せてみてはいかがですか。

元寇で受けた甚大な被害

対馬の中央に広がる「浅茅湾」

対馬の中央に広がる「浅茅湾」

元寇・倭寇争いの時代 激戦の舞台となった対馬

数々の激戦の舞台となった対馬。元寇では「神風」により侵略を免れたと言われていますが、対馬・壱岐は大きな被害を受けました。その後、元への復讐の意味もあり、倭寇は朝鮮半島・中国で略奪を行うようになっていきます。高麗は倭寇が原因のひとつとなり滅亡、李氏朝鮮は倭寇の巣窟とされた対馬を襲撃するなど、国境の海をめぐる攻防は激化していきました。対馬の中央に広がる浅茅湾は、複雑な入り江と無人島が折りなす美しいリアス式海岸ですが、外洋の波浪や風の影響が少なく、倭寇にとって格好の活動拠点だったのです。

秀吉の朝鮮出兵の先陣へ

宗家の菩提寺「万松院」

宗家の菩提寺「万松院」

「朝鮮出兵の先陣となれ」 過酷な命令を下された対馬

元寇・倭寇の争いを経て、朝鮮との平和通行の時代を迎えた対馬。しかし16世紀末、豊臣秀吉から「朝鮮出兵の先陣となれ」という過酷な命令がくだりました。対馬島主・宗義智(そうよしとし)は、秀吉の重臣でもあった義父の小西行長にはたらきかけ、様々な和平工作を講じるも、秀吉の野望を鎮めることはできず、朝鮮に出兵。秀吉の死により戦争は終結したものの、以後数年間、両国の断絶状態が続きました。義智は家康・朝鮮国王双方の国書を偽造・改竄するという命がけの外交交渉を行い、両国の関係を回復しました。

外交使節団「朝鮮通信使」の受入

厳原港まつり対馬アリラン祭では朝鮮通信使行列の再現パレードが行われる

厳原港まつり対馬アリラン祭では朝鮮通信使行列の再現パレードが行われる

「朝鮮通信使」受入において 宗氏が果たした役割

宗氏の努力が実を結び国交は回復、1607年に念願の朝鮮使節が来日しました。以後約200年間に12回の通信使が日本を訪れることになります。対馬藩の船が釜山の倭館(対馬藩の外交通商施設)まで赴き対馬の府中(厳原)に着くと、藩主の宗氏が警護随行し江戸まで往来しました。一行は、学者・文人・画家などを含む、まさに一大文化使節団。一回通信使が来日すると対馬藩では前後3年間はその行事に付き合わされることになるほどの一大イベント。この中心役を担うことで対馬藩主宗家は、高い格式を持つことができました。

日露戦争と対馬の要塞

日露戦争時代の息吹を感じる「姫神山砲台跡」

日露戦争時代の息吹を感じる「姫神山砲台跡」

住吉神社境内にあるロシアの機雷

住吉神社境内にあるロシアの機雷

旧日本陸軍が設置した「豊砲台跡」

旧日本陸軍が設置した「豊砲台跡」

東郷平八郎率いる連合艦隊 対馬沖でバルチック艦隊を撃破

時は帝国主義の時代。ロシアは露骨な南下政策を続け、対馬近海の軍事的緊張は極度に高まりました。伊藤博文・山方有朋らは対馬を視察し、「対馬ハ我西門ニシテ、最要衝ノ地」と復命。対馬要塞の建造が始まり、日露戦争へと突入しました。対馬沖・日本海を主戦場とした海戦において、東郷平八郎率いる連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、日本の勝利を決定的なものにしました。 島自体が「海上の大要塞」とも称された対馬には、日露戦争・日本海海戦の時代を体感できるスポットが数多く存在します。

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