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教会めぐり

長崎キリシタン史

信仰の歴史が世界遺産

長崎キリシタン史

出会い

東洋での布教をしていたイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルは、マラッカで一人の日本人と出会い、1549年、鹿児島に渡って日本での布教を開始し、翌年、日本初の南蛮貿易港となった平戸を訪れました。ポルトガルは布教を条件に貿易をおこなっていたので、領主の松浦隆信が平戸での布教を認め、長崎県のキリスト教の歴史がはじまりました。

時は室町幕府の末期、全国各地が戦いに明け暮れる時代でした。肥前(現在の長崎県と佐賀県)も諸氏がにらみ合い、生き残る術(すべ)として、1562年、大村純忠が、まず横瀬浦、次に福田、最後に長崎を開港し、兄の有馬義直は口之津を開港しました。平戸松浦氏と違い、大村、有馬は領主自らも洗礼を受け、領内ではほとんどの領民がキリシタンとなり、いわば信仰の証しとして、寺社が破壊され教会堂が建ちました。

キリシタン領主で豊前・大友宗麟の勢いを封じた肥前の龍造寺隆信は、同じ肥前の有馬氏と大村氏を征圧して、九州南下政策をとりましたが、1584年、北進していた島津氏の援軍を得た有馬氏との「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が戦死し、さらに、1587年、豊臣秀吉が島津を抑えて九州を平定して大村・有馬・松浦などの領地は安堵され、戦国の世が終わりました。

キリスト教に対する脅威

天下統一を図る秀吉は、信仰で結束するキリシタンから受ける脅威などから、1587年に「伴天連追放令」を出しました。豊臣政権への目をはばかりながらも大村、有馬領内での信仰はつづけられました。しかし、高知に漂着したスペインのサン・フェリペ号船員の発言で、布教によってヨーロッパが日本を侵略すると考えた秀吉は1597年、フランシスコ会の宣教師・イエズス会修道士ら26人を長崎の西坂で処刑しました。1599年、平戸で松浦隆信が亡くなると、子・鎮信によって重臣でキリシタンの籠手田一族が追放され、長崎に逃れました。現在の長崎市の中心部は、秀吉が利益を優先したポルトガルとの貿易によって栄え、同時に日本でのキリスト教布教の本拠地となり、神学校、教会堂が立ち並び、ヨーロッパ文化が華咲いたキリシタンの町でした。それは、1614年の禁教令までつづいたのです。

しかし、徳川政権になると、1605年には、大村純忠の子・喜前が棄教して宣教師を領内から追放し、その後、菩提寺として本教寺を建てました。有馬晴信は、1610年、幕命でポルトガル船を撃沈してイエズス会との関係を悪化させ、1612年に詐欺事件で斬首となり、1614年、その子・直純は日向転封(ひゅうがてんぷう)となり、島原半島は天領となりました。この年、全国に禁教令を出した徳川幕府によって、宣教師や高山右近らは長崎港から国外追放を受け、教会は破壊され、残ったり、再潜入した宣教師や信徒たちに対しても本格的な迫害がおこなわれました。

生き続けた信仰

1637年におきた天草・島原の乱を、幕府はキリシタンー揆として徹底的に鎮圧し、1639年、ポルトガル船の入港を禁止して鎖国を完成させました。1644年には小西マンショ神父が大阪で殉教し、日本に残る司祭は一人もいなくなりました。

しかし、もはやいないと思われていたキリシタンの存在が明らかになった大村の郡崩(こおりくず)れが1657年におき、宗門改、絵踏み、寺請、五人組などの宗旨の登録や監視によってキリシタン禁制がさらに徹底されました。しかし、平戸・生月・外海・浦上・天草などでは、信徒たちは深く息を潜めて、仏教徒を装い、リーダーを中心に強い結束力でキリシタンの信仰を守り続け、江戸後期には外海地方にいたキリシタンたちが、五島などへ海を渡って移住し、新しい潜伏キリシタンの集落をつくっていきました。

再会

幕末の開国後、カトリック教会として最初に入ってきたパリ外国宣教会によって長崎の外国人居留地に建てられた大浦天主堂で、キリシタンたちは、1865年、小西マンショ神父の殉教以来、220年ぶりに司祭との再会を果たしました。しかし、明治政府になっても禁教政策は継続されていたため迫害を受けました。宗旨を公にしたため棄教を迫られますが、多くの信徒は再び潜伏することがなかったので、「浦上四番崩れ」「木場三番崩れ」「五島崩れ」「伊万里県事件」などとよばれるキリシタン迫害事件がおきたのです。明治政府は世界から批判を浴びて、1873年にキリシタン禁制の高札を撤去せざるをえなくなり、ようやくキリスト教の信仰は黙認されました。宣教師たちは、当初は行動できる範囲を制限されていましたが、各地を巡回するようになり、キリシタンたちを探し、信徒たちとともに教会を建てていきました。

一方、生月などには、潜伏時代に守り続けてきた信仰の形を変えなかった人々が、今も生きつづけています。長い間潜伏した人々の姿を体現する彼らは、「カクレキリシタン」と呼ばれてきました。いつまた、どのような苦難が訪れるかわからない時代、生きていくための選択の道が複数あったのだということを示しています。

自由の象徴

長崎の教会は、ザビエルがキリスト教を伝えて以来の約460年という信仰の歴史を、長く苦しく、辛抱強く担ってきたキリシタンの子孫によって建てられたものがほとんどです。城のような大きな教会も小屋のような小さな教会も、十字架を堂々と掲げた祈りの場を持てたことの喜びは同じで、優劣はありません。もし、みなさんが巡礼地を訪れたら、その地で生きた人々の心の支えとなった信仰の足跡に目をむけるための黙想の時間を作ることをお勧めします。

ザビエルと歩く ながさき巡礼(長崎文献社刊)より

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