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モデルコース

Vol.2 まっこと興奮したぜよ。初めての長崎は!

Vol.2 まっこと興奮したぜよ。初めての長崎は!

Q なぜ、誰と、どの道を通ってきたのですか?

A 勝海舟先生のお供をして初めて長崎に来たのは、元治元年(1864)の春、2月22日の早朝のことであった。熊本から船で島原湊に着いて、城下本陣で休憩してさっそく出発。愛津(雲仙愛野町)で一泊し、23日に長崎着だったかのう。
道中はわくわくドキドキちゅうか、中でも島原の景色には興奮したぜよ。西洋にいう「ラア(溶岩)」の年月を経た石が、いわゆる雲仙の噴火の大石がゴロゴロしておって、歩きにくい道やったが、いや迫力あったのお。
島原半島を海岸線に沿って進み、島原道から長崎街道に出て長崎市中に入ったんだが、途中の鍋島陣屋、神代陣屋はなかなかに風格のある地域での、もちっとゆっくり滞在したかったが難所の日見峠が控えておるゆえ、ささっと通り過ぎたぜよ。長崎市中に入って最初に目にしたものは、5年前にすでに鎖国を解かれて開港していた長崎港の、外国の帆船や蒸気船がたくさん停泊している景色よ。そこには世界の海原へ続く大きな風景が広がっていて、体中に気持ち良い風が吹きぬけていった。まっこと初めての長崎がわしに送ってよこしたメッセージじゃ。「龍馬、羽ばたけぃ!世界は広いぜよ」とな。

地図

初めての長崎へは、神戸から瀬戸内海をわたり大分佐賀関に上陸、豊後街道で九州を横断し、熊本から有明海をわたって島原上陸、島原街道、長崎街道を経て長崎へ。往路10日間、復路9日間の旅だった


島原湊

島原湊

古くから島原の船着場として賑わった島原内港。港口に浮かぶ九十九島は雲仙噴火にともなう眉山崩壊によってできたもの

愛津庄屋宅跡

愛津庄屋宅跡

龍馬らが宿泊した愛津庄屋深浦家。豪壮な石垣や庭園が残る

田代原

田代原

裏雲仙の箱庭と称される田代原(たしろばる)の美しい放牧場。千々石道はこの草原を越える

神代小路地区

神代小路地区

江戸時代の町並みがまるごと残る神代小路(こうじろくうじ)地区は、佐賀県の飛地。武家屋敷の質実で気品あふれる佇まいは、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。アクセス/島原鉄道「神代駅」より徒歩5分

乙女姉やんのはちきん便り

乙女姉やん

「日本を今一度、せんたくいたし申候事に」とな!

弟はなかなかに筆マメで、生涯に17通も私に手紙をよこしたんですよ!「天下第一のあらくれ先生へ」とか「龍馬よりも強いと評判なり」とか、私をからかった文面もあるけれど、いろんな体験や出来事を細かに書いてくれたおかげで、京や江戸の情勢、世界のことまで土佐の田舎にいてもようわかった。長崎へ行く前の年の手紙には、「日本を今一度せんたくいたし申候事に」と書いてあって、あのよばれたれが、こんな大きな想いを持つ男に…と感無量でした!

幕末の紺屋町

幕末の紺屋町(現・諏訪町)興福寺へ向かう通りで人力車用に石畳が敷かれている。今でも長崎らしい町家風情が漂う一角(長崎大学附属図書館 所蔵)

幕末当時の島原市

夢に散った幕末の志士たち

島原藩主・松平忠和は、十五代将軍・徳川慶喜の実弟であったため、幕末の頃は特に佐幕思想が強く、尊王攘夷の志士たちを強硬に弾圧した。維新後、元老院議員となった丸山作楽は、文久三年(1863)に私塾・神習処を開き、皇国の道を説いたとして投獄。脱藩し、尊王攘夷派の武装集団・大和天誅組に加わった保母健、尾崎鋳五郎は捕らえられ獄死。同志には後にワイル・ウェフ号で遭難した土佐藩の池内蔵太もいたが、この時は逃げのびていた。また、梅村真守、伊東荒益は、水戸藩尊王攘夷派・天狗党に参加し、いずれも戦死。
この騒動の最中、元治元年(1864)2月22日早朝、坂本龍馬は勝海舟らとともに島原湊に上陸、街道を長崎へと急いだ。


島原武家屋敷

島原武家屋敷

古い町並みを縦横にはしる水路には色鮮やかな錦鯉が悠々と泳ぐ。町のいたるところに湧水ポイントがあり、その数は60カ所。約200年前の普賢岳の噴火で地下水が湧き出したといわれる。「しまばら水屋敷」や「四明荘」など湧水があり、池を中心に配した庭園が、訪れた人たちを魅了する

島原城と城下の町並み

島原城と城下の町並み

島原城の壮大な石垣は、江戸時代初期に築かれた。城内にはキリシタン関係の資料などが展示され、城下の武家屋敷は当時の佇まいを残し藩士たちの暮らしがしのばれる。城の西にある森岳商店街は古い町家を改築したギャラリーなどが軒を並べ、レトロな表情を醸し出している

かんざらし 黒棒

かんざらし
黒棒

島原伝統の甘味、「かんざらし」。名前の由来はもち米を大寒の日に水に晒していたところから。黒砂糖を使った昔懐かしい菓子「黒棒」も人気だ

幕末当時の南島原市

蝋つくって、黒砂糖つくって、鉄砲かついで

文久三年(1863)、攘夷を掲げる長州藩が馬関海峡(関門海峡)を通る外国船に砲撃を加えるという事件が起こった。その報復として米英蘭仏の四カ国連合艦隊は、圧倒的兵力で長州に壊滅的な被害を与える(馬関戦争)。
そこで、馬関海峡からそう遠くない島原藩では、攘夷に備え、藩の防衛強化を図ることとなった。加津佐に団平八郎隊長、南有馬に川井斧茂隊長の農兵を配備。日頃は、甘蔗(さとうきび)から黒砂糖をつくったり、蝋の原料となる櫨の木を栽培していた農民が武装したところで、西欧列強の武力の前にはひとたまりもないことを、佐幕一辺倒だった藩は知る由もなかった。


原城跡、キリシタン墓地、日野江城跡

原城跡、キリシタン墓地、日野江城跡

島原の乱の舞台となった原城跡。この地を治めていた日野江城跡。美しい装飾の施されたキリシタン墓地が集中する

口之津港

口之津港


商人の町として栄えた有家では、5つの蔵の散策を楽しめる。蔵元は酒2軒、しょうゆ2軒、そうめん1軒。それぞれの古い佇まいには時が刻んだ味わいが満ちている

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