大村キリシタン史跡めぐり

日本で最初のキリシタン大名・大村純忠が治めていた大村。
純忠は1563年、横瀬浦(現在の長崎県西海市)でキリスト教の洗礼を受け、重臣たちもともにキリシタンとなりました。
領主の改宗により、大村領内には、キリスト教が広がっていきました。
 
しかし、1587年に純忠が亡くなると、跡を継いだ息子の喜前はキリスト教を棄て日蓮宗に改宗。本経寺を建立しました。
さらに1614年、江戸幕府が全国にキリスト教禁教令を発布し、仏教徒になる領民も多くいましたが、
厳しいキリシタン弾圧のなかにあっても、信仰を守り続けるキリシタンたちがいました。 
 
大村の殉教の歴史を歩いてたどってみませんか。

長崎空港から車で5分

天正遣欧少年使節顕彰之像

ローマに派遣された日本初の公式使節団
天正遣欧少年使節顕彰之像-1
日本で初めてヨーロッパを公式訪問した少年使節の銅像。使節の出発400周年を記念して建立されました。左から、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの順に並んでいます。
住所 〒856-0815 長崎県大村市森園町
電話番号 0957-53-4111(大村市文化振興課)

徒歩9分

放虎原殉教地

郡崩れによりキリシタンが処刑された場所
放虎原殉教地-1

大村の処刑場跡。明暦3年(1657年)、603人の潜伏キリシタンが発覚した事件「郡崩れ」に関係する場所。

郡崩れのキリシタンのうち131人が万治元年(1658)に殉教した。
伊達政宗が派遣した支倉常長ら慶長遣欧使節をローマに案内したソテロ神父も、ここで処刑されたとされる。
この事件をきっかけに大村藩では更に厳しくキリスト教禁教政策が行われていくこととなった。
 
現在、その跡には、銅版のレリーフをはめ込んだ大きな殉教顕彰碑が建てられている。

住所 〒856-0820 長崎県大村市協和町(国道34号線松並2丁目交差点に案内あり)
電話番号 0957-53-4111

徒歩12分

妻子別れの石

愛する家族と引き裂かれた悲しみの場所
妻子別れの石-1

殉教者たちが最後の別れを惜しんで妻子と水盃を交わしたあと、放虎原殉教地へひかれていった悲しみの場所。
涙で濡れた石「涙石」は、今でも苔が生えないと言われています。

住所 〒856-0828 長崎県大村市杭出津3丁目
電話番号 0957-53-4111(大村市観光振興課)

徒歩7分

本経寺大村藩主大村家墓所(国指定史跡)

大村家の菩提寺
本経寺大村藩主大村家墓所(国指定史跡)-1

初代藩主・大村喜前が創設した大村藩の菩提寺。境内の墓所には、初代からの歴代藩主やその一族の墓が並んでいます。キリスト教から仏教へという宗教政策を示す文化財として、国の史跡にも指定。

住所 〒856-0822 長崎県大村市古町1-64
電話番号 0957-53-4111(大村市観光振興課)

徒歩10分

獄門所跡

131人の殉教者がみせしめに
獄門所跡-1

郡崩れの際、処刑された131人の首を塩づけにして、ここで20日間晒(さらし)首にし、世人へのみせしめとしました。今は白亜の無原罪の聖母像が建てられ、遠い昔の殉教者たちの霊をやさしく慰めています。

住所 〒856-0814 長崎県大村市松並1丁目(松並1丁目公民館敷地内にある)
電話番号 0957-53-4111(大村市役所)

大村名物「大村寿司」

大村名物も忘れずに!500年の歴史を持つ伝統の押し寿司
大村名物「大村寿司」-1

戦国時代、領主大村純伊が戦に敗れ流浪の末、領地を取り戻した時、喜んだ領民たちが取り急ぎ、御飯と具をもろぶたに詰めた押し寿司をお祝いに出したのが始まり。
将兵たちは脇差で四角に切って食べたと伝えられています。
 
表面に錦糸玉子がたっぷりで、ほんのり甘く、具だくさん。見た目もとても華やかです。
 
大村市内の提供店のほか、長崎空港でも購入することができます。