仕事の関係上、長崎の観光スポットには、かなり足を運んでいる私にとって、地元で撮影された映画を見過ごすわけにはいかない。そして映画を見て初めて知る穴場スポットに愕然。
ここどこ?キレイ!行ってみたい!36歳女がひとりゆくロケ地めぐり。

「春ちゃん?よく来てくれたわね。本当によく来た〜」
「おー雅彦か、こげん大きゅうなって…。せいぜい親孝行せんと!!」
長崎は、異国との文化交流が盛んに行われたという歴史背景があり、市内には外国人が住んでいた居留地跡が人々の生活の一部や観光地としてしっかりと残っている。なかでもよく知られているのがオランダ坂。ツタの絡まる石垣や洋館に沿って延びる石畳を歩けば、多くの外国人が行き交った居留地の時代へと、思い馳せることができるだろう。このオランダ坂を石田春人(池内博之)が走って登ってくるのだが、実際、この坂道を走るのはかなりキツイ。池内さんの役者魂を見た感じがする。
2階テラスからの眺めがきれかよ〜
またこのオランダ坂を上る途中にあるのが、東山手「地球館」だ。ここは鎌倉から長崎へ帰ってきた石田節子(松坂慶子)が、自分の好きなジャズを聴きながら暮らす場所として使われた撮影現場。映画の中では「ジャズバー椎の実」という設定だが、この洋館、日替りで世界のランチがいただけるレストランとして実際に営業しているのだ。撮影時には、店内に電話ボックスや、レコード棚などをジャズバーらしくセットしたらしいが、それでなくても、建物自体が明治期に建てられた洋風住宅なので、異国情緒溢れる長崎を表現するにはぴったりのシーンだったのでは?
地球館のスタッフの方から「2階テラスからの眺めがきれかよ〜」と言われて上ってみた。本当に絶景だった。すぐ下には煙突が特徴の洋館、その先には、黄色の屋根を持つ中国様式の孔子廟、さらに奥には長崎港が…。時折聞こえる船の汽笛もあってか、その場をなかなか立ち去れない私がいた。
東山手洋風住宅群
7つの洋館が肩を寄せ合うように建ち並ぶ。瓦屋根に中国の欄間飾りと、和洋中織り混ざった建築様式として市指定の有形文化財になっている。洋館内には、59ヵ国もの世界のランチが日替り(1日約20食限定。できれば予約を)で味わえる東山手「地球館」(095-822-7966 Pなし)をはじめ、洋館群の貴重な資料を展示する東山手地区町並み保存センター(095-820-0069 Pなし)、長崎出身で写真の開祖である上野彦馬の作品などを展示する古写真資料館と、江戸時代全般の近世遺跡から出土した遺物や陶器などを展示する埋蔵資料館(古写真資料館・埋蔵資料館ともに095-820-3386)がある。
オランダ坂
1859年の、日本の開国政策により外国人が住む居留地として整備されていった東山手・南山手エリア。当時、長崎の人々は、東洋人以外の外国人を「オランダさん」と呼んでおり、そのオランダさんが歩いていたことから名付けられた。
観光スポットとしては、東山手洋風住宅群の方から活水女子大学を結ぶ坂道のことを指している。
DATA 095-829-1314(長崎市観光宣伝課) 見学自由 Pなし

「原爆の落ちた年も、そのわずか1週間後に精霊流しん行われたよと」
「長崎の日本の一番悲しくて忌まわしい日が、私の人生で一番輝かしい日だったなんて…」
精霊船を作っているシーンで登場するのがこの松森天満宮だ。ここで蟹江敬三さんが言った上記のセリフは、長崎市民にとって誇りある言葉ではないだろうか。長崎に原爆が投下されたのは昭和20年8月9日午前11時2分。爆心地の頭上500mほどで炸裂した原子爆弾は、7万4000人もの尊い命を一瞬にして奪い、7万5000人にも及ぶ被爆者をもたらした。愛する人を一瞬にして失いながらも、愛する人のためにこの精霊船だけは流してあげたい…。この強い想いが、原爆投下のわずか1週間後であったにもかかわらず小さな精霊船を作って川に流した…。この事実は、映画を観た全ての人に「人を愛する深い心」を知らしめたような気がする。
被爆地・長崎を知るには、平和祈念像が立つ平和公園や、原爆資料館など浦上エリアを歩くのが一番なのだが、実は、市内全体に渡って、被爆の傷跡は数多く点在している。そのうちの一つに挙げられるのが、被爆した木々。
長崎大学経済学部の正門入口すぐのところに立つ被爆した木
長崎大学経済学部の正門入口すぐのところに立つ大きな楠木もまた被爆した木だ。この木をバックに、石田節子(松坂慶子)が、原爆の悲惨さと、その悲しい過去を櫻井雅彦(内田朝陽)に伝えるシーンがある。被爆した人と被爆した木…。寿命こそ違うが、大地にしっかりと根を下ろし、力強く生きる様は、どちらも同じだ。周囲約7mという大きな楠木を触って、生命の力強さを感じたい。
松森天満宮
寛永2年(1626)創建。諏訪神社、伊勢宮とともに長崎三社と称されている。ここには正殿を囲む欄間に30枚の彫り物職人尽がはめ込まれていることで有名。この「職人尽」は絵ではなく、木に彫られたもので、彫り物による職人尽は他に類を見ない。また作業の様子や道具が詳細に描かれていることもあり、県の有形文化財に指定されている。
DATA 095-822-7099 拝観自由 P5〜6台
「あの花!おかぁちゃまに!」
「事故だったのよ 事故だったの」
少年時代の雅彦が、母である櫻井喜代子(高島礼子)のために、腰まで水に浸かりながらバラを取るシーンがこの中島川で撮影されている。現場は路面電車・諏訪神社前電停そばにある「桃渓橋」の下あたり。また同じくこの橋は、桜井雅彦(内田朝陽)が父(田中邦衛)と昔住んだ家へ行く道中のシーンにも使われている。実際にその橋を渡ってみると、ほんの5歩ほどの小さな橋だった。しかし、昭和の時代を彷彿させるこの映画にはもってこいだったのだろうか、年代を感じさせる古めかしい石橋のその姿は、時が止まったかのように、そこにひっそりと佇んでいた。
長崎市内を流れる中島川には、約100mおきに12もの橋が架かっている。そんなに?と驚く人も多いと思うが、これには理由があった。地図上でもいいので、橋の先をたどって行くとその先にはお寺が建っている。橋の数だけとはいかないが、中島川沿いに架かる石橋群は、寺の参道的役割のために架設された門前橋との話があるのだ。しかも、魔除けのために直線上に門があるのではないのが面白いところ。
お墓への坂道
そんなお寺がズラリ並ぶなか、眼鏡橋の直線上に建つ皓台寺は、お墓のシーンで登場。和田家の墓という設定に合わせて、本当にその場に建つ同じ名字の和田家の墓が使われているというから驚き。また、ここには坂の町長崎を納得するには十分な風景があった。山肌に張り付くように立ち並んでいるのは、何も家だけではない、お墓だってそうである。階段道を上るのはとても大変だが、そこから眺める長崎の街並みは、疲れを忘れさせるほどに素晴らしかった。
桃渓橋
延宝7年(1679)に僧「朴意(ぼくい)」の募財により架設された石橋アーチ橋で、別名「朴意橋」。昭和57年の長崎大水害で大破したが、その後原形に復旧された。
DATA 095-829-1314(長崎市観光宣伝課) 見学自由 Pなし
皓台寺
慶長13年(1608)創建。当時長崎は領主をはじめ住民のほとんどがキリシタン信者であり、厳しいスタートであったことは言うまでもない。皓台寺が管理するお墓の中には、写真の開祖である上野彦馬をはじめ、オランダ商館医として来崎したシーボルトの妻であるお滝とその子供・楠本イネの墓があるなど、史跡として残るお墓も点在。
DATA 095-823-7211 拝観自由 Pあり