このページは共通メニューを読み飛ばして直接本文をご覧になることができます。直接本文をご覧になるかたは「本文へ」をクリックしてください。
本文へ


HOMEモデルコース龍馬塾 > vol.9 船中八策

モデルコース

vol.9 船中八策

船中八策、大英断をもって天下と更始一新せん。

Q 龍馬先生の考えた船中八策が、五箇条のご誓文へとつながったって本当?

A そう聞き及ぶが、わしが死んだ後の詳しいことはわからん。慶応三年(1867)6月、わしは後藤象二郎とともに、土佐藩の夕顔丸に乗り込み、長崎を出帆した。薩長土ら倒幕派の機運がさらに高まっていたころじゃ。その船中で、新しい世の中をつくるための八策の政治網領を後藤に語り、それを長岡謙吉が書き留めた。その内容は「大政奉還」「議会開設」「官制改革」「条約改正」「憲法制定」「海軍創設」「御親兵設立」「通貨政策」といったものだが、いわば議会政治の提唱ぜよ。わしはその頃のアメリカを理想の社会として考えておったのだが、早い話が封建制の否定やき、当時の人間にはなかなか理解されないのは致し方ないがじゃ。明治の新政府ができても、幕府が倒されただけで議会制度の実現はその20年後。廃藩置県にしても戊辰戦争のずっと後のことである。だが、どうじゃ?明治の人間には理解されないわしの思想が、戦後の日本人には馴染みやすかろうて。今ならまっこと当然のことばっかりながよ。
それにしても、長崎で接した西洋の知識人たちから聞いた『フランス革命』も、ルソーの『民約論』も眩しい夜明けの光のようであった。長崎はわしの思想を育てた学校でもあったやき、今でも懐かしいありがたい気持ちで一杯ぜよ!

新政府綱領八策

新政府綱領八策

大政奉還実現後、「船中八策」を基に新政府の綱領として起草した龍馬直筆の文書。近代日本の指針を示したものである。慶応三年(1867)11月に記されたとあるからこの直後に京都で暗殺されたことになる(国立国会図書館ホームページより転載)


長岡謙吉(1834~72)

長岡謙吉(1834~72)

土佐藩を脱藩して亀山社中、海援隊に参加。「船中八策」「閑愁録」を出版。海援隊の二代目隊長、三河県知事

後藤象二郎(1838~97)

後藤象二郎(1838~97)

長崎に土佐商会を設置した土佐藩参政。龍馬と和解後に海援隊を支援し、龍馬の「船中八策」をもとに大政奉還を藩主に建白した

イカルス号事件

イカルス号事件

慶応三年(1867)、7月6日の夜、遊郭のあった長崎の丸山の路上で、英艦イカルス号の英国人水夫が何者かに殺害されるという事件が起こった。長崎奉行と英国公使パークスは海援隊の隊士が犯人ではないかと嫌疑をかけたが、隊長の龍馬は事実無根と抗議。真犯人は明治維新後に黒田藩士の金子才吉と判明した

乙女姉やんのはちきん便り

乙女姉やん

龍馬が世界へつながる道を編み出した!

龍馬は幼い頃から、優しい性格の子でしたね。心が温かくて広やかで、だから大政奉還を唱えたのだと私は思っています。徳川慶喜が二条城で政権奉還をした時ですが、龍馬は自分の下宿で大政奉還ゆう自分のアイデアが通るか通らないか、後藤象二郎からの知らせをじっと待っていたそうです。OKの知らせが来た際には、「将軍家(中略)よくこそ断じたまへるものかな、よくこそ断じたまへるものかな」と将軍の心中を思いやって涙し、これで血を見ないで済んだと喜んだそうで…まっこと優しい子じゃ。維新という革命は、泣き虫のあの甘えん坊の弟だからこそ引っ張ってこれたがじゃと、本当に本当にそう思っております。

坂本龍馬

イカルス号事件の3日後に、海援隊はオランダ商人より銃1,300挺を購入している。これが海援隊隊長として龍馬が長崎で行った最後の大仕事となった

幕末当時の川棚町

幻のブランド「KAWATANA」

江戸時代、ヨーロッパで有田焼が積出港であった伊万里の地名から「IMARI」「OLD IMARI」などと呼ばれていたことは広く知られている。大量の有田焼が最も近い伊万里港に運ばれたのと同じ理由で、長崎の波佐見焼や三川内焼は、一番近い川棚港や早岐港から積み出された。当時、海外に向けて輸出する際の最終的な積出港は長崎であったから、有田周辺で焼かれた輸出用の陶磁器も川棚港から積み出されたことになる。また、川棚港から外洋を通らず、穏やかな大村湾を横断して時津に揚げ、陸路で長崎に運ぶルートは大変合理的でもあった。伊万里港の副港として川棚港の果たした役割は大きい。ただ、残念なのはそれらの焼きものに「KAWATANA」というブランド名が付されなかったことである。


川棚港 魚雷発射試験場跡 海軍工廠跡

川棚港
魚雷発射試験場跡
海軍工廠跡

漁業と農業を主にした穏やかな町であるが、第二次世界大戦中は川棚海軍工廠(軍事工場)が建てられ、現在も多くの軍事遺跡が見られる。海軍資材倉庫が残る海軍工廠跡は川棚駅海側の平地にあり、大崎半島の対岸にある片島には魚雷発射試験場跡があり、忘れてはいけない史実の跡が残されている

くじゃく園 グリーン東彼新鮮市場

くじゃく園
グリーン東彼新鮮市場

大村湾に突き出た大崎半島は、全体が県立自然公園に指定されている。家族で楽しめるくじゃく園、キャンプ場、海水浴場などのほか、温泉施設もある。また地元の旬な食材を手に入れるなら、農協直営のグリーン東彼新鮮市場へ。川棚特産のアスパラガスや小串トマト、大村湾で採れるナマコやシャコなど新鮮食材が揃い、全国各地への発送も可能だ

幕末当時の波佐見町

波佐見焼の龍馬マグ

オランダ商館との取引権を持つ日本人の商人は、ポルトガル語で仲買人を意味する「CONPRADOR(コンプラドール)」から、コンプラ商人と呼ばれた。彼らは仲間同士で金冨良商社を立ち上げ、日本の醤油を金冨良ブランドの瓶(コンプラ瓶と呼ばれた)に詰めて輸出していた。コンプラ瓶は波佐見焼の三合徳利、白磁に呉須の染付けで「JAPANSCHZOYA」と書かれていた。幕末の最盛期には、年間40万本生産され、今でもアンティークとしてなかなかの人気がある。そして、このコンプラ瓶の胴部分を半分に切り、取っ手を付けたものが日本最古のマグカップ。ヨーロッパのディーラーが注文して作らせた輸出品であろうが、当時、世界最大級の登窯を有した焼きものの里、波佐見ならではのインターナショナルな製品だ。現在、波佐見焼「龍馬マグ」として復元、販売されている。


龍馬マグ くらわんか茶碗 波佐見町陶芸の館 古陶磁美術館・緑青

龍馬マグ
くらわんか茶碗
波佐見町陶芸の館
古陶磁美術館・緑青

元禄時代に爆発的な人気を呼んだ「くらわんか茶碗」にみられるように、庶民の暮らしにあわせた焼きものが作り続けられ、今も130軒の窯元から新たな作品が生み出されている。陶磁器を存分に楽しむなら、町のあちこちにある陶磁器ギャラリーを訪ねたい。歴史資料の展示や陶芸体験、展示即売コーナーがある「波佐見町陶芸の館」のほか、地元の陶芸店が経営する「古陶磁美術館・緑青」も興味深い。波佐見町陶芸の館/0956-85-2290、古陶磁美術館・緑青/0956-85-7890


文化の陶・四季舎

文化の陶・四季舎

波佐見焼の器で食事を楽しむのも旅の醍醐味。中尾山にある「文化の陶 四季舎」では、作陶体験、喫茶やワークショップも開催されるほか、地元で採れた野菜を中心とした創作郷土料理「はさみ焼御膳」が食べられる(2日前までに要予約)。器はもちろん波佐見焼だ。文化の陶 四季舎/0956-27-6051

波佐見陶器まつり 陶郷中尾山「桜陶祭」

波佐見陶器まつり
陶郷中尾山「桜陶祭」

陶器にちなんだイベントも多くの賑わいを見せる。ゴールデンウィーク期間中に開催される「波佐見陶器まつり」は、やきもの公園を中心に町内130の窯元が出店するという一大イベント。それより一足早いのが、4月上旬の陶郷中尾山「桜陶祭」。窯元巡りウォークラリー、名物桜陶弁当は各窯元に要予約

ページトップへ