

Q 龍馬と長崎と芸者が日本を変えたって本当?
A わしと土佐藩の参政、後藤象二郎が長崎の榎津町(現・万屋町)の料亭、清風亭で会談したのは他でもない、後藤からの、たっての希望に応えたのじゃ。
土佐勤王党を弾圧した後藤は、我ら亀山社中同志の仇敵。そ奴が何でまたわしと会談を望むのか。罠か?とも思ったが、ともかく出かけていった先が当時、地元で一番の料亭「清風亭」。ここの女将は日本茶の輸出で大成功した大浦慶という。日頃世話になっており、おまけに席についた芸妓が馴染みのお元じゃ。この女子は丸山一の美女で、ここだけの話じゃが秘かにえい仲やったき、こりゃ粋な計らいすると、一気に打ち解けた気持ちになったぜよ。
互いに胸襟を開いて政治情勢について語り合い、意気投合。諸々の見解も一致。実はその頃、亀山社中の経営が思わしゅうなく、金策に行き詰っておった事情もあり、土佐商会から援助してもらえるという話は渡りに船だった。相手もわしのネットワークが欲しかったき、バーターちゅうことかの。これが縁で薩長同盟が成立したことは、先のvol.7で講義しておる。
しかし、後藤さんはなかなかに見識のあるお人であった。恨みつらみを棄てて、大局から日本のいく末を思う点はわしと同じじゃ。この会談がわしの船中八策提案のきっかけとなり、一気に大政奉還・明治維新へと回天していったき、まあすべては長崎のおかげじゃ。

後藤象二郎(1838~97)
長崎に土佐商会を設置した土佐藩参政。龍馬と和解後に海援隊を支援し、龍馬の「船中八策」をもとに大政奉還を藩主に建白した
大浦慶(1828~84)
日本茶輸出貿易で莫大な利益を上げ、龍馬ら維新の志士たちを庇護したといわれる女傑

日本回天のサブステージ・幕末の丸山遊郭版画(史跡料亭花月収蔵)
日本三代遊郭の一つに数えられた長崎丸山。その誕生は寛永十六年(1639)頃といわれ、以来、日本有数の遊里として発展した。丸山は国際貿易都市の中でもさながら自由解放区の場所で、幕末には夜毎、商談や密談が繰り広げられたという。この花街には龍馬ら亀山社中のメンバーもよく出入りしたとか。景気が傾く前は、彼らの給料は当時の庶民の三倍近い額だったので、茶屋や遊郭に出入りできたといわれる

史跡料亭「花月」
龍馬も同志を引き連れてよく登楼したという

海援隊ら同志との集合写真。左から3番目が龍馬。日本各地に数多く存在する龍馬の肖像写真の中で、正真正銘の龍馬であることがほぼ特定された写真は6種類とされる。いずれも慶応年間(1865~67)、龍馬が31~33歳の時に撮影されたものである。への字の口に細い目、眉間には大きな黒子がり、絶世の美男子とは言い難い容貌だが、どことなく甘さも漂い今に通じるお洒落さを醸し出している。進取の気性に富んだ新しもの好きな面もあったという

後藤に騙されっちゅう!龍馬は誰にでも懐っこいき。
後藤象二郎という男は、土佐郷士の敵じゃ。なのに一緒に仕事をするという。 「姦物役人にだまされ候」と手紙に書いてやりました。そしたら慶応三年(1867)6月24日、龍馬からこんな返事が来たんです。 「私一人二て五百人や七百人お引て、天下の御為するより、廿四万石(土佐藩)を引て、天下国歌の御為致すが甚だよろしく、おそれながらこれらの所ニハ、乙様のお心ニハ少し心がおよぶまいかと存じ候」…。寄せ集めの浪士集団では幕府の巨大組織にかなわない、そういうことなんですね。和戦両様の考えを持っていた龍馬ですが、そのいずれにも組織の力や武力が必要と。いや、自在なる男じゃ、わが弟は。また褒めてしまったけどお許しのほど!
「もう二本差の時代ではない」と公言しながらも実は刀剣マニア。坂本家の家宝である名刀「吉行」を兄・権平に懇願して譲り受けたという龍馬。この刀がそうなのだろうか。豪放磊落という言葉が似合う風貌をもちながら、乙女姉をはじめとする女性宛ての手紙にあふれる優しさから「心やさしい土佐”いごっそう(快男児)”」の姿が浮かび上がる。これこそが人間龍馬の魅力のようだ
大村湾の最奥部に位置する時津町は、江戸時代、海路の上陸地であり、宿場町として栄えた。時津街道(浦上街道)は、長崎街道の裏街道として多くの旅人が行き交い、船旅を終えた大名らもまた、街道沿いの御茶屋(本陣)で一服した。
町には天保年間(1830~1843)に創業したという饅頭屋が2軒。長崎から小倉に通じる長崎街道は「シュガーロード」と呼ばれるほど、街道沿いの地域には伝統の甘い郷土菓子がある。時津の饅頭もまたシュガーロードの置き土産である。時津饅頭は酒種でふくらました柔らかな皮と小豆のこしあんが定番。「長崎まであと三里。どれ、ひとつ饅頭でもつまんでいこか」そんな旅人の声が聞こえてきそうだ。

長崎甚左衛門純景の墓
御茶屋跡
現在は長崎市に隣接するベッドタウンとして発展、江戸時代には交通の要塞として栄えた時津町。かつては西洋文化を伝える重要な役割を担っていた。町内には長崎開港時の領主であった長崎甚左衛門純景の墓などの史跡もあり、時津街道を通る大名や幕府の役人たちが休憩していたという「御茶屋跡」が、今でも往時の面影のままに残っている

さばくさらかし岩
時津街道、現在の国道206号線沿いには、「さばくさらかし岩」と呼ばれる奇岩が山の斜面に。今にも落ちてきそうなこの岩にはユニークな言い伝えがある。街道を通った魚売りがこの岩を目にし、危ないので落ちてから先に進もうと待ったが、いつになっても落ちてこないのでとうとう鯖を腐らせた。それが「さばくさらかし岩」という呼び名のルーツである

時津ワイン
時津饅頭
時津町は県内有数のぶどうの産地でもある。甘味と酸味のバランスの取れた巨峰は格別の味と評判で、その巨峰を使った「時津ワイン」も誕生。すっきりとした味わいの白と、ほどよい渋みの赤ワインの2種がある。街道の歴史ともに歩んだ「時津饅頭」も健在だ
幕末の長崎でその名をとどろかせた女性貿易商・大浦慶。彼女はイギリス商人ウィリアム・オルトとともに、九州の製茶を輸出する事業をはじめ、安政四年(1857)には、一万斤(6トン)をアメリカに向けて長崎港から輸出し、日本茶の海外進出の足がかりとなった。巨万の富を築いた慶は、龍馬をはじめ陸奥宗光、大隈重信、松方正義など、そうそうたる幕末の志士たちに惜しみない援助をしたことでも有名である。
昼夜の温度差が激しく、霧立つ山肌で育った東彼杵の「そのぎ茶」は、香りが強く、さわやかな後味が特長。昔も今も釜で丁寧に炒った釜炒り茶で、龍馬もきっと一息入れたに違いない。

東彼杵町の茶畑
茶々焼
くじらのだご汁
古くからお茶の栽培が盛んな東彼杵町。香り高いそのぎ茶を練りこんだ和菓子「茶々焼」が道の駅・彼杵の荘で楽しめる。また、かつて鯨の一大集積地であったことから、鯨を使った郷土料理も健在。地元産の野菜や鯨が入ったあつあつの「くじらのだご汁」も味わってみたい

龍頭泉
水流豊富な千綿川は、上流から河口まで48の滝と淵が連なった自然の造形美が楽しめる。龍頭泉と呼ばれるスポットは、江戸時代の儒学者である広瀬淡窓が大村藩主の招きで千綿渓を訪ねた際、その美しさを「まるで大きな龍が横たわっているようだ」と評し、龍に例えて命名されたといわれている

ひさご塚古墳
東彼杵町歴史民俗資料館
国道205号線沿いにある県指定史跡「ひさご塚古墳」は、およそ5世紀に造られたという前方後円墳。ここを中心にした歴史公園・彼杵の荘には歴史民俗資料館もあり、長崎北部の考古、民俗、歴史を学ぶことができる。東彼杵町歴史民俗資料館/0957-46-1632