

Q 「亀山社中」ってどんな会社?何をするの?
A 一言で言うなら海運会社じゃ。株主というか、越前藩と薩摩藩の後ろ盾を得て、長崎を拠点に船で世界を相手に貿易を行う社中、カンパニーを近藤長次郎、沢村惣之丞ら土佐の脱藩メンバーを中心に設立したがじゃ。居留地の外国人商人から武器などの物資を購入して、船で日本各地へ運ぶ運行代理業が主な事業だが、この外国人商人との取引が後の薩長同盟に結びついていく重要な役割を果たすことになったのである。
幕府軍の第二次長州征伐が迫る長州藩のために、英国人貿易商グラバーから薩摩名義で武器を購入し、船で長州藩に送ってやった仕事がそれだ。こんなことを誰が考えるか?一朝一夕にできることではないぜよ。社中の同志の信用と仲介があればこそ外人の商人と取引もできるというわけじゃ。長州藩から薩摩藩へは飢饉のため不足していた米を運んで五分五分にしてやったりと、まっこと細かな配慮もしたぜよ。これを機に対立関係にあった両藩が慶応二年(1866)1月、薩長同盟を結ぶ運びとなった。
薩長同盟が、倒幕を推進する強力なバネになったことは皆も知っておろうが、わしの目的はそこにとどまらず。世界に羽ばたく新しいニッポンの夜明けが見たかったがじゃ。自由にビジネスをして、自由に世界を行き来して、自由に生きる、わしはそんな未来を実現したかったがじゃ!

龍馬通り
寺町通りから亀山社中記念館を通り、龍馬像の立つ風頭公園までの小道を龍馬通りという。歴史薫る坂道にはブーツや若宮稲荷神社など見所も多い

長崎市亀山社中記念館
龍馬の背もたれ柱や隠れ部屋など、龍馬を最も身近に感じることができるスポット。亀山社中と推定される場所にあった建物を復元し、資料も多数展示。
お問い合わせ/095-823-3400

若宮稲荷神社
後醍醐天皇の忠臣・楠木正成ゆかりの神社として龍馬らも参詣したといわれ、現在は境内に龍馬像を設置。場所は亀山社中跡近くにあり、連なるようにして立つ朱色の鳥居が印象に残る
亀山焼
窯業期間は約60年とわずかながら、「崎陽(きよう・長崎の別称)の名陶」といわれた亀山焼。龍馬は生涯、亀山焼の龍の染付白磁飯椀を愛用していたという。その亀山焼の始まりは、文化四年(1807)、「垣根山焼」と称してオランダ船用の水瓶を焼いたことに端を発したといわれている。窯は亀山社中上の垣根山にあり、登窯は11室。のちに波佐見などから陶工を招き、高級磁器を製作するようになった。その技法には染付と色絵があり、木下逸雲や石崎融思など長崎の一流画人が絵付けをし、長崎ならではと思わせるオランダ船や龍踊、コウモリ、ザクロなどがモチーフとなった。慶応元年(1865)に閉窯となった後は、その施設を亀山社中が借用。長い時を経て、現在長崎県の三川内焼の窯元が亀山焼の復元に取り組み、往時の名陶がいかにハイクオリティであったかが注目されている。

質屋の才谷屋の分家やき! 商業センスは抜群です。
でもね、弟が亀山社中設立を思いついたのは、やはり勝海舟先生に啓発された結果だと私は踏んでおります。海舟先生から聞いたアメリカの制度や世界観に感動したんですね。龍馬はよく射利(しゃり)という言葉を使いましたが、これは営利の意味。営利こそが正義と。侍の言葉ではないと言う人もいる、けれど射利が人を動かし、体制を変え、国を変えたりするものだと、よう言っておりました。だから亀山社中をつくった…。明治維新は大名が商人からの借金を全部帳消しにしてしまった革命やき、龍馬の言ったことは正解。わが弟ながら大した男よのう!
小曽根乾堂(1828~85)
亀山社中、海援隊の強力なスポンサーであった豪商。文人としても著名で、特に篆刻に秀でていた。弟・小曽根英四郎(1840~90)は長男・乾堂をとおして龍馬に心酔。物心両面あらゆる支援をした
海軍伝習所の練習船・咸臨丸(ヤパン号)は、勝海舟をはじめ明治維新で活躍する多くの俊英たちを乗せ、九十九島で操舵訓練を行っている。指導したオランダ人将校・カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』(木田信利訳)には、「九州本土と平戸島がつくる海峡を通過したが、北入口の最も狭いところを過ぎると、右方に平戸の港が展開する。この海峡はまったく絵のように美しい。南に進むにしたがって、だんだん広くなり、四方一面に日本帆船の蝟集する入江や小港を見る」と、この海域を描写している。荒れ狂う時代の大波の中、乗船していた日本の若者たちにとっては、この美しい島々の景色はどのように映ったのだろうか。
このときの伝習生の一人・赤松則良は、後に佐世保鎮守府初代長官として、佐世保発展の礎を築くことになった

南九十九島
ハウステンボス
観光スポットに恵まれた佐世保は長崎県内第2の都市。この地ならではの絶景を楽しむならば、西海国立公園内にある九十九島に訪れたい。海上に浮かぶ208の島々からなる風景が独特の風情を醸す。また、ヨーロッパの街並みを再現したハウステンボスは、四季の花々が楽しめるガーデンや、ガーデンで採れたハーブを使ったメニューも堪能できるリゾートだ

佐世保バーガー
ビーフシチュー
古くから軍港として栄えてきた佐世保は、今も自衛隊や米軍基地の街である。アメリカ文化が根づいた背景から生まれた近年人気の佐世保バーガーは、昭和二十五年(1950)ごろ、アメリカ海軍から伝えられたのがはじまりといわれる。軍港としての歴史を感じさせる「海軍さんのビーフシチュー」など、異国情緒あふれるご当地グルメをぜひ味わってみたい
佐々は江戸時代、平戸街道(平戸往還)の要地として栄えた。戦国時代初期までは豪族佐々氏が支配していたが、平戸松浦氏とってかわられ、以後幕末まで平戸藩領となる。平戸街道は、平戸藩主が参勤交代や長崎勤番(外国船に対する長崎港警備)の際に通った道で、佐々の古川にはその本陣があったとされる。佐々宿と江迎宿の中間にある標高117メートルの江里峠は、急勾配の難所で、旅籠や茶屋もあり、長崎・平戸へ遊学に向かう幕末の志士たちが越えた峠でもあった。
慶応四年(1868)7月、平戸藩が参加した会津戦争では、この集落出身の石井幸平清久が奥州刈和野の戦で戦死したという記録がある。この時、郷土の兵士が秋田蕗の苗を持ち帰り、町内に植えたともいわれる。

平戸街道江里峠
佐々川の白魚漁
平戸街道の要路として栄えた佐々には、町のほぼ中央に国見岳(772メートル)を源流とする佐々川が流れている。北松炭田の操業時代は黒く濁っていたものの、水質がすっかり回復した今では春の白魚漁、初夏の鮎釣りが季節の風物詩となっている

雅楽演奏
神田雅楽に使用される篳篥
およそ100年前から神田地区で伝承されている「神田雅楽」。浄土真宗正福寺門徒だけで楽団が構成され、楽人は新旧合わせて20名ほど。お寺の年中行事や町主催の招魂祭などで演奏を披露している。笙、篳篥、太鼓、鉦…正装した楽人たちによる雅な音色が里山に響く