

Q そのころの長崎はどんなだったの?
A わしが初めて訪れたときが元治元年(1864)。その5年前に横浜、函館とともに長崎も開港して、海外との交易が活発になっておったき、そらあもう目の前に広がっているのは、まっこと新しいニッポンであった。
お供をした海舟先生の長崎での仕事が、外国艦隊による長州砲撃の阻止だったため、偉い外人さんとの会談やら外国軍艦の視察やら、外国人ばかりが住んでいる居留地やら、オランダの軍医から指導を受けて建てた最新設備の病院などを見学したんだが、すべてがまっこと便利で大きく美しく、ここは日本やろうか?と不思議な思いがしたもんじゃ。
文久二年(1862)頃から居留地の建築ラッシュが始まっていて、擬洋式と呼ばれる(和洋折衷のことぜよ)瓦葺でベランダ付きの洋館が建ち並ぶダウンタウンは、社交クラブやレストラン、日本で初めてのホテルである「ホテル・デ・フランス」や「ジャパンホテル」についで「長崎ホテル」や「ベル・ビュー・ホテル(現在の全日空ホテル)」やらが建っていて、土佐の絵師、河田小龍が書いた「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく・ジョン万次郎のアメリカ見聞録)」の中の町のようだったのう。蒸気機関車が走り、橋にはランプが点っておって夜でも明るい、これこそ文明開化の光じゃ。希望じゃ。ワクワクしたぜよ!

大黒町および出島と長崎港
慶応二年(1866)、福済寺の山手から撮影されたもの。海上には帆船や蒸気船が多数停泊しており長崎港の繁栄ぶりがうかがえる。龍馬もほぼ同じ光景を目にしたことと思われる(長崎大学附属図書館 所蔵)

福済寺
長崎市に滞在中の勝海舟と龍馬が宿とした。龍馬と海舟が境内で相撲を取ったという伝聞もある

南蛮人来朝之図
17世紀初期に描かれたもの。長崎の町はポルトガルとの南蛮貿易から始まった(長崎歴史博物館収蔵)

珍た(ワイン)で酔った姿が見えるような…
ずっと時代は下がるのだが、九州は柳川出身の北原白秋という詩人が詠んだ詩に「われは思ふ。末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。(中略)阿剌吉(あらき)、珍た(ちんた)の酒を」というものがありますけど、皆さんは知っていますか。
「阿剌吉」とはインドネシアの焼酎、「珍た」とはぶどう酒のことで、「チンタ」はポルトガル語で赤を意味するとか。今でいう赤ワインですね。安政六年(1859)年の長崎開港以後は輸入量が増えて、長崎の庶民もよう飲んだそうじゃ。もっちろん龍馬も海舟先生も、たらふく飲んだことでしょう!弟は大酒飲みやき。
幕末の長崎居留地で、ビクトリア風の建物が密集。東山手の丘は往時の佇まいを今に残す(長崎大学附属図書館 収蔵)
異国の香り漂う長崎に、龍馬が亀山社中を設立したのが慶応元年(1865)。この年、大浦外国人居留地に大浦天主堂が建てられた。フランス寺と呼ばれた大浦天主堂は、日本二十六聖人に捧げられた外国人のための教会であるが、見物客を装った浦上の潜伏キリシタンたちがやってきて、プチジャン神父に信仰を告白。約250年もの沈黙を破った瞬間である。これが世界中に「奇跡」とまで伝えられた「信徒発見」であった。
しかし、幕府は時代の流れに逆らうかのように過酷なキリシタン弾圧を行い、キリシタン禁教の高札が撤去されたのは、明治六年(1873)のことであった。
長崎県美術館
亜熱帯植物園
港を取り巻く斜面都市である長崎は、多彩な歴史と文化に包まれている。長崎を重層的に知るなら、ミュージアムのはしごはいかがだろうか。長崎歴史文化博物館で全般の歴史をつかんだら、ピンポイントで特徴あるミュージアムへ。癒し系なら亜熱帯植物園で自然に触れるのも一興。長崎県美術館のスタイリッシュな建物はアート心を弾ませる
長崎原爆資料館
世界最後の被爆地として全国各地から修学旅行で訪れる若者たちの、平和学習の拠点でもある長崎。人類共通の願いである平和について、長崎原爆資料館をはじめとした原爆、平和関連の施設もぜひ訪れたい
1年を通じて多彩な祭りが繰り広げられる長崎市。なかでも多くの観光客で賑わうのが冬の一大イベントである「長崎ランタンフェスティバル」。ほかに国内外の大型帆船が集まる「長崎帆船まつり」や江戸時代からの伝統を誇る「長崎ペーロン選手権大会」、370余年の歴史がある国指定重要無形民俗文化財「長崎くんち」など豊富なイベントが開催される。

長崎ランタンフェスティバル

長崎帆船まつり
長崎中心部から船に乗ること約30分でリゾートアイランドに到着。伊王島は天然温泉があるほか、沖ノ島天主堂や俊寛伝説地、灯台記念館など散策も楽しめる。一方の高島は世界遺産(九州・山口の近代化産業遺産群)登録を目指す炭坑遺構の島。釣りや海水浴スポットとしても知られる。

伊王島露天風呂

高島飛島磯釣り公園