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モデルコース

Vol.15 龍馬が生きていたとしたら

龍馬、キャプテンクックか、ロックフェラー?

Q 龍馬が維新後に生きていたとしたら?

A わしの大河ドラマが放映されゆうこともあり、今年はまた特別にかまびすしいのう。龍馬を暗殺したのは誰か?という議論がまたも再燃して、各界のオピニオンリーダーが、やれ黒幕は大久保利通とか、船中八策が龍馬の発案だと知られたくない後藤象二郎が刺客を放ったとか、いろは丸事件で金と名誉の両方を失った紀州藩だとか、色々な説が出ているらしい。
また、もし龍馬が生きて維新を迎えたとしたら、何をしていたのだろうとか、どんな人生を送ったか?とか、実に有難いことぜよ。
それはわしも時々、考えるわ。間違いなく言えるのは役人ではない。岩崎弥太郎のような実業家でもない。商売はおもしろいが、経営だけに心身を縛られるは嫌じゃ。そうやのう、多分クックのような冒険家か、アメリカ合衆国に移住して大統領にでも立候補しておるかも知れぬ。ハッハッハ。
生きていたとしたら女子の問題もあるのう。お龍とは結婚しなかったのでは、と余計なことを言う者もおるとか。確かにそれ以降の人生で、もっと好きな女子に巡り合うチャンスもあることやき!なんて嘘じゃ、嘘じゃ!
はっきり見えるのは、海舟先生と船に乗っている自分の姿である。大海原を大きな帆船で航海する嬉しそうな姿じゃ。まっこと楽しいことぜよ!

寛永長崎港図

寛永長崎港図

1630年頃の長崎を描いた最古の長崎図。白い部分が内町、赤が外町。長崎が岬の先から発展したことが分かる(長崎歴史文化博物館収蔵)


南蛮人来朝の図

南蛮人来朝の図

17世紀初期に描かれたもの。長崎の町はポルトガルとの交易貿易から始まった

長崎港之図

長崎港之図

寛政四年(1792)丸山応挙の作と伝えられる。蘭船や唐船で賑わう長崎港

長崎港

龍馬像の立つ風頭公園から眺める長崎港

乙女姉やんのはちきん便り

乙女姉やん

心は女性よりも世界に飛んでいて…。

現代に生きる皆さま、ポトマック河畔に桜の植樹を成功させたエリザ・R・シドモア女史という紀行作家を知っていますか?彼女が初めて日本を訪問したのが1884年、以来1902年春までの約20年間にわたって書き綴られた日本および日本人の記録、「明治の人力車ツアー・日本紀行」によると、1900年ごろの長崎は全世界の艦隊に石炭と食料を供給する一大基地でありながら、絵のような美しい港であり、庶民生活は活気にあふれていると書かれております。そして21世紀の長崎は…。龍馬も見たかったことでしょう。私だって、このシドモアさんのように世界中を旅してみたかった!生まれ変わったらヨットで単身地球一周してみせるき!なんてね。はちきんやき。

龍馬のブーツ

龍馬のブーツ

モニュメントとして製作された龍馬のブーツの中に足を入れて立ち、長崎の町を見渡すと、希望の地・長崎と言った龍馬の声が聞こえてくるような気がする

幕末当時の平戸市

貿易港としての歩みが、進取の気風育む

江戸時代、長崎から馬関(現・下関)までは蒸気船で2日。田助港は初日の寄港地として、回船問屋や船宿、遊女屋30数件を数える賑やかな港町だった。薩摩藩ゆかりの回船問屋・多々良孝平の角屋は、勤王の意思をしめす「天朝御用船御宿」という看板を掲げ、西郷隆盛、桂小五郎、高杉晋作、山県狂介、大隈重信などが集まり密談を繰り返したといわれる。
一方、平戸藩は、幕末には朝廷の権威と結びついて幕藩体制の再構築を図ろうとする「公武合体論」であったが、戊辰戦争では一転、討幕派として参戦。維新後に功労として3000石の加増となった。平戸藩九代藩主・松浦清の十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚。その子・慶子は宮中に上がり孝明天皇の皇子・祐宮(のちの明治天皇)を産む。清は明治天皇の曽祖父となった。


平戸港 オランダ商館跡 オランダ塀

平戸港
オランダ商館跡
オランダ塀

天文十九年(1550)にポルトガル船が来航して以来、平戸は国際貿易港として栄えた。現在もオランダ商館跡やオランダ塀など、往時をしのぶ史跡が残されている

聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂

聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂

平戸は、フランシスコ・ザビエルが布教のため約1カ月間滞在した地としても知られている。聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂(平戸教会)をはじめ、数々の教会が点在し、異国情緒があふれる。

幕末当時の江迎町

平戸街道の宿場町には、吉田松陰も投宿

江戸時代、平戸藩領であった江迎には、平戸藩主が参勤交代の際に利用する江迎本陣が置かれていた。この道は平戸街道として発展したが、その街道を21歳の若き吉田松陰も歩き、江迎の庄屋宅に一泊したと日記に記されている。 松陰は平戸で山鹿素行から山鹿流兵学を学び、約50日間滞在。彼は「安政の大獄」で処刑されるが、松陰の開いた松下村塾では、高杉晋作ら多くの人材が育ち、その思想が明治維新の実現へとつながった。若き日の松陰の目に映ったであろう江迎本陣の建物は、江迎町長坂免に現存している。


江迎本陣 吉田松陰腰掛石

江迎本陣
吉田松陰腰掛石

長崎県北部に位置する江迎町は、緑豊かな丘陵地。かつては平戸街道の宿場町で、藩主の宿泊所とされた本陣が今も残る。平戸遊学のためこの地を訪れた吉田松陰が、くたくたに疲れ果てて腰掛けたという石も伝わっている

もと蔵 本陣庭園

もと蔵
本陣庭園

元禄時代から平戸藩・松浦家の本陣が置かれていた場所には、現在、酒蔵があり、天保元年(1830)に再建された御成の間(枕水舎)が保存されている。隣接するもと蔵は、元禄年間に建てられた組込式の蔵で、2階まで約7メートルの一本柱が貫いている。
潜龍酒造(株)/0956-65-2209

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