

Q どうすれば、あんな素敵な手紙を書けるの?
A わしは想いを詩歌に託すのは苦手じゃ。思ったこと、感じたことを直接手紙にしたためるのが好きやき、偉いお人やとんでもない事件に遭遇すると、友人や身内にすぐに「これこれこう」と書いて飛脚に渡したものである。特に乙女姉やんには実況中継並みの臨場感あふれる手紙を15、6通は送っておる。
姉やんには「お前は大言壮語する気味があるやき、すこしマイナスして読んどる」と言われたこともあるが、ほとばしる感情や激情を抑え切れんがやき仕方ないぜよ。何や、間遠くなると催促してきよったくせに。
乙女姉が、わしからの手紙を全部きちんと保管してくれたき、今現在、かなりの数の手紙が残っていると聞く。現存する最も古い手紙は、嘉永六年(1853)9月23日に故郷の父へ出したものらしい。初めての江戸で黒船警備にかり出され、吃驚した気持ちをしたためたものじゃ。「異国の首を打ち取り、帰国仕るべく候」!とな。勝海舟先生に出会ったときも「日本第一の人物」と。千葉道場の娘、佐那は「かほかたち、平井より少しよし」と。平井は初恋の平井加尾のことじゃ、ハハ。要は素直に、真実を書くことじゃ。
だが、少し演出も入れねばならん。講談のごとくメリハリつけて語れば、読む方も情景が目に浮かぶだろうし。書くことで見えてくる自分の気持ち・志というものもある。人間はコミュニケーションのいきもの、手紙で双方の理解が深まれば嬉しいことぜよ!

長崎奉行所 龍馬伝館
2010年大河ドラマ「龍馬伝」の放送に合わせて坂本龍馬の人物像やドラマの裏側を紹介する新しい展示館。
お問い合わせ先/095-818-8366 (長崎歴史文化博物館)
http://www.nmhc.jp/

長崎まちなか龍馬館
新大工方面からグラバー方面まで歴史が息づく一本道「長崎龍馬の道」をテーマとして、長崎の歴史・文化の紹介、観光情報の発信や物産の販売等を行う。長崎のインデックスとなる浜町ベルナード観光沿いに開館。2011年2月28日(月)まで(予定)。
問い合わせ先/095-829-1314
(長崎さるく観光課)

佐世保・ハウステンボス・龍馬伝館
海をテーマに観光丸と坂本龍馬、ヨーロッパそして世界のつながりを展示や映像など3つのコーナー「大河ドラマ情報エリア」「テーマ情報エリア」「地域情報エリア」で展開。
お問い合わせ先/0956-27-0180
(ハウステンボス(株)広告宣伝課)
http://www.huistenbosch.co.jp

イラスト入りで、ビジュアライズが得意!
龍馬の手紙は本当に楽しみでした。普段の消息がつかめないだけに、手紙が届くと一家が揃って正座し、大抵私が読み上げて皆に聞かせたものです。イラスト入りで説明が具体的やき、父も継母も兄も兄嫁も皆驚いたり、感心したり笑ったり、それはもう今でいうDVDを見るみたいなものでしたね。
好きな女性ができると、それも必ず報告してきましたね。どんなタイプが好きかって? 男勝りで勇敢で口数少なく、たまには琴も弾くような(笑)。
晩年には「徳川の御為にならぬと申て是非殺すようにとの事のよし」と自分が狙われている理由も書いてきています。こうしてみると、龍馬の手紙はあの子の人生をすべて映している。貴重な資料であると同時に、幕末維新文学の傑作ではないかしら。司馬遼太郎先生もそんな意味のことをおっしゃっていたのよ!
豪放磊落という言葉が似合う風貌をもちながら、女性宛ての手紙にあふれる優しさから「心やさしい土佐“いごっそう(快男児)”」これこそが人間龍馬の魅力のようだ
壱岐の鯨捕は、明応二年(1493)から始まったといわれる。江戸中期から参入した土肥甚右衛門は、壱岐の瀬戸浦で鯨組をおこし、1年間の捕鯨頭数は200頭を超え、その繁栄ぶりは日本三大富豪に数えられるほどであった。勝本町に残る「阿呆塀」と呼ばれる高さ7メートルの巨大な壁は、京都祇園から芸者や舞妓を連れて住まわせた屋敷の塀の跡。その一方で、鯨を供養する鯨塚や、寺社仏閣の補修や寄進も積極的に行う信仰心も篤かった。
しかし、英米の捕鯨船が日本近海に出没するようになってからは鯨の数が激減し、栄華の限りを尽くした土肥組も安政年間にその幕を閉じた。今は勝本の民家の塀に、納屋場跡の石積がわずかに残るのみである。

鯨の墓
「鯨一頭で七浦うるおう」といわれた時代、当時の鯨漁の様子を描いた絵『鯨魚鑑笑録』が長崎歴史文化博物館に収蔵されている。写真は捕った鯨を供養した鯨の墓

原ノ辻遺跡出土の人面石
玄界灘に浮かぶ壱岐は、古代から大陸や朝鮮半島の文化を受け入れてきた歴史ロマンが香る島。紀元前2世紀から4世紀にかけて形成されたといわれる「原ノ辻遺跡」は、『魏志』倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都とされ、大陸との交流をしめす遺物が多く出土している
対馬は古代から、防人が置かれ、外国の侵攻に立ち向かう国境の島であった。幕末の安政六年(1859)には、イギリス船「アクチオン号」が浅茅湾の入口付近に停泊し、対馬藩に無断で測量を行う事件が起きた。また、文久元年(1861)には、ロシアの軍艦「ポサドニック号」が浅茅湾の芋崎を半年にわたって占拠し、島民が犠牲となる事件も発生。対馬藩は幕府や長崎奉行に援助を求め、幕府は交渉人を乗せた咸臨丸を派遣するが、結局イギリス軍艦2隻が乗りつけ問題は解決する。2つの事件をきっかけとして、対馬の国防としての役割が強化されることになった。今も国家防衛の要衝として、陸・海・空の自衛隊基地が置かれている。

浅茅湾
九州最北端に位置する対馬市は、対岸に韓国・釜山をのぞみ、古代より大陸との中継地として重要な役割を果たしてきた。対馬藩は、朝鮮との外交窓口として度々、朝鮮通信使を迎え入れるなど、交流の架け橋となった

武家屋敷
朝鮮通信使行列
対馬藩10万石の城下町・厳原には、かつての武家屋敷が点在し、歴史散策を楽しむことができる。朝鮮通信使について学ぶなら県立対馬歴史民俗資料館がおすすめ。
県立対馬歴史民俗資料館/0920-52-3687