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モデルコース

vol.12 長崎・彦馬スタジオで肖像撮影!

長崎・彦馬スタジオで肖像撮影!

Q 龍馬先生は写真が好きなのですか?ブーツ姿がかっこいいですね!

A 長崎はいろんなものが世界中から入ってきて、ここしかないもの、ここが一番初めちうもんがたくさんあるが、写真もそのひとつだ。中島河畔に上野撮影局といって、横浜の下岡蓮杖写真館と並んで日本で初めての写真館があるが、ここでわしは5回も撮影をした。幕末人物写真としては将軍慶喜と匹敵する数とか。最新式の湿板写真で、目をつぶっちゃいかん時間が数十秒あったが、まっことカッコよくポーズを決めたという自信もある。羽二重の紋付羽織にブーツがよう似合うとカメラマンからもほめられたしのう。
魂が抜き取られ、寿命を縮めるゆう噂もあるが、そんなこと信じるわけがない。いつか年を取って若いころの自分の姿を見られるのも楽しいことである。現にこうして、平成の時代の塾生が、わしの写真を見てイケメンやら何やら言いよるが。外国にはこうして優れた発明や技術がたくさんある。
わしは新しいもんが大好きじゃ。夢があるからのう。桂小五郎、高杉晋作、亀山社中の仲間も予約して、ワクワクして順番を待ちゅうがじゃ。

龍馬像の原型

高知桂浜の龍馬像の原型。身長173cm、当時としてはかなりの大柄だった


龍馬携帯のピストル

龍馬携帯のピストル。32口径スミス&ウエッソンII型の模型。高杉晋作から贈られたもの(模造品)

龍馬ブーツ

龍馬ブーツ。当時の製法を検討しながらの手作り(長崎市亀山社中記念館)


上野彦馬(うえの ひこま)(1838~1904)

上野彦馬(うえの ひこま)(1838~1904)

文久二年(1862)、日本初の写真館「上野撮影局」を中島川河畔に開設。蘭学者の息子としての素養に加え、オランダ軍医ポンペに舎密学(化学)を学び、ほぼ独学で写真術をマスターした。上野撮影局では、龍馬をはじめ多くの志士や、明治の高官、名士が撮影された。龍馬はプリント1枚が1分(現在の約1万円)もする自分の写真を名刺代わりに配っていたとか

乙女姉やんのはちきん便り

乙女姉やん

カッコつけよって!(笑)

今でいうドレスダウンとかいう着こなし?せっかく仕立ての良い黒羽二重を着ておりながら袴はヨレヨレ、髪も撫でつけもしておらず。これはまあ生まれつきの縮れ毛だから大目に見ても、無精ひげがねえ…。弟は大人になっても食べこぼしはするは、墨はなすりつけるはで身だしなみというものには無縁の男でございました。それがブーツと懐手(ふところに手を入れるポーズのこと)をして、斜めにカラダをひねって…。まっこと、カッコつけよって!

龍馬のブーツ像

龍馬のブーツ像

寺町通りから亀山社中記念館を通り、龍馬像の立つ風頭公園までの小道、「龍馬通り」の坂道に立つ「龍馬のブーツ像」

幕末当時の松浦市

幕末動乱の余波はこの地にも

松浦水軍発祥の地である松浦半島は、大陸と日本を結ぶ重要な拠点として『魏志』の倭人伝にも記述がある。中世に登場した松浦党は、船を自在に操る水軍として果敢に戦い、源平の合戦、そして鎌倉時代の蒙古襲来(元寇)でも活躍した。
戦国時代以降の松浦党(今福松浦氏)は平戸松浦氏の家臣となり、江戸時代になると漁業を中心とした生業で平穏なまま幕末を迎えるが、幕末動乱の余波はこの地にも及ぶ。
慶応元年(1865)の第2次長州征伐の際には今福から21人が出兵し、大坂待機後に帰還。明治改元直前の慶応四年(1868)7月、平戸藩の会津戦争(約400人が従軍)参戦により、英国軍艦に乗船して秋田に向かい、各地を転戦した。藩医として従軍した志佐町の太田正内は、その激戦の模様や逸話を軍中日記として残している。


土谷地区の棚田

土谷地区の棚田

福島北西部、土谷地区の棚田は「日本の棚田百選」にも選ばれており、玄界灘に沈む夕陽と棚田のシチュエーションはカメラマン垂涎の構図だ。2月から3月は島に自生する椿5万本が赤い花をつける

イロハ島

イロハ島

対岸に佐賀県を臨む東部の海上には大小48の島々を総称する「イロハ」島が優雅な姿を見せる。展望台からの眺望は絶景!

旬さばの刺身

旬さばの刺身

松浦はアジ・サバ・トラフグの水揚げ日本一!平成17年から始まった食のイベントが旬あじ祭り(4月~8月末)、旬さば祭り(10月~2月末)、松浦とらふぐ祭り(10月~3月末)。松浦市内の約20店舗の旅館や飲食店でお手ごろ価格で食べられる

幕末当時の長与町

長崎を代表する焼きもの生産地

長崎市に隣接する長与町。かつては巨大な登窯があり、焼きものの産地であった。そのはじまりは寛文七年(1667)に開窯し、30年間操業。その後、正徳二年(1712)に大村藩より再興の命を受け、波佐見の尾古太郎兵衛が派遣され、波佐見焼の技術で生産された白磁染付の日用品は、関西方面への出荷されるほど栄えた。
陶工にはチャンパン(ベトナム)人もいたらしく、緑、黄、白の釉薬をかけながした焼きものは、「長与三彩」と呼ばれ珍重されたが、文献には「珍敷焼物」という記述があるのみである。
文政三年(1820)に2度目の廃業。弘化二年(1845)に渡辺作兵衛が再興するも長続きせず、安政6年(1859)には完全閉窯した。通称「皿山」のふもとのみかん畑の中に、階段状になった往時の窯壁を見ることができる。


長与三彩(長崎歴史文化博物館収蔵)

長与三彩(長崎歴史文化博物館収蔵)

堂崎ノ鼻 スナメリ

堂崎ノ鼻
スナメリ

大村湾に面し、ミカン山に囲まれた長与町。堂崎ノ鼻と琴ノ尾岳は、ぜひ訪れたい名勝だ。堂崎ノ鼻は町の最北端にあり、大村湾に突き出たリアス式の海岸で、ごつごつした岩肌と真っ青な海とのコントラストが最高。スナメリのウォッチングポイントでもある。琴ノ尾岳は、標高451メートルで、展望台からは大村湾や雲仙、長崎市内などを望み、抜群の眺めだ

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