

Q お龍さんて、どんな人だったの?
A お龍に関して、後世さまざまな伝聞があるようだが、まっことわしが惚れて惚れて惚れぬいた女子やき、これからわしが述べることが真実である。まあ、聞いてや!
まずは土佐藩の佐々木高行が「美人かもしれないがよき妻だったかは分からない」と述べていることに反論じゃ。確かに家事全般は苦手だが、活花や茶道は得意で月琴もなかなかの腕前。医者の娘だから、出自も悪くない。父親が安政の大獄で処刑され、その後の生活苦の中、女郎屋に売られそうになった妹を力ずくで取り返してきた度胸の据わった姉御肌の女じゃ。
伏見の寺田屋で伏見奉行所の捕り方100名にわしが襲撃された時も、裸で急を知らせてくれて九死に一生を得たがやき、感謝が愛を深めるのは人の世の道理というものだろうが。わしの場合、勝気な女子は昔から好きっちゅうか…。
寺田屋事件では指に重傷を負ってのう、薩摩藩の西郷さんと小松帯刀さんの世話で鹿児島に湯治に行ったがじゃ。龍と二人で手を取り合って出かけたぜよ。
乙女姉と折り合いが悪かったという噂もあったようだが、それはわしが死んだ後のことで、ようわからん。どちらも強い性格やき、ぶつかることはあったかも知れんが、どちらもわしを大切にしてくれた女子じゃ。長生きしてやれば姉やん孝行も女房孝行もできたにと、それだけが心残りぜよ!

お龍
科学的鑑定でほぼ本人と確認された32歳ごろの写真。細面の瓜実顔はあくまで白く、まったく典型的な京美人だったといわれる(京都国立博物館収蔵)

お龍愛用の月琴
龍馬の妻・楢崎龍は、慶応二年(1866)6月から約8カ月長崎に滞在した。この間、お龍は幕末長崎の豪商であった小曽根家に滞在しながら月琴を習っている。小曽根家には今も彼女が弾いたとされる月琴が残されている。小曽根家の話によると、お龍は勝気ではっきりとものを言う性格だったようだ。龍馬は彼女のことを「お龍さん」と呼んで、姉乙女に宛てた手紙に「まことにおもしろき女」と記している

小曽根乾堂(1828~85)
亀山社中、海援隊の強力なスポンサーであった豪商。文人としても著名で、特に篆刻に秀でていた。竜馬の妻・楢崎龍を預かり、乾堂の妻・常が彼女の世話をし、乾堂や娘・キクから月琴を習ったのではないかとされる

近藤長次郎の墓
龍馬とお龍は、鹿児島の霧島温泉などで魚釣りや温泉巡りなど束の間の蜜月旅行を楽しんだ。二人は鹿児島に向かう途中、長崎に寄港し、寺町の皓台寺にある社中の同志、近藤長次郎の墓参をしている。長次郎は英国への単独渡航の企てが発覚し、切腹。墓は小曽根家の墓地の一角にある。墓碑の「梅花書屋」とは、切腹をした小曾根家の離れ座敷名。揮毫は龍馬といわれる

龍馬の愛した人やき、別れ際は泣けました!
龍馬が惚れた女子で、その人も龍馬を愛してくれていたのなら何も言うことはありません。私も夫の岡上新甫と約10年間に及ぶ結婚が破綻し、2人の子どもを置いて実家に帰った身。女子が置かれた弱い立場もよくわかりますし、龍馬の死後、坂本家に身を寄せていたお龍さんを私なりにお世話させてもらいました。でもお龍さんは窮屈な日常を嫌う気質のようで、そんなところが龍馬と気が合ったんでしょうかね。やがて土佐を去ったんですが、別れ際に「親切にしてくれてありがとう」と…。船を見送って、その姿が見えなくなった時、龍馬がもう帰ってこないことを改めて感じて、まっこと泣けたがよ!
雲仙温泉
龍馬とお龍は霧島温泉で湯治を楽しんだが、雲仙温泉には行かなかったようだ。龍馬が生きていたら、ぜひ案内したい名湯で江戸時代から湯治場として栄えた。温泉街は古湯、新湯、小地獄の3つがあり、白濁と透明の2種類の硫黄泉。日本初の国立公園でもある
平戸藩は、鹿町で獲れる石炭を商品化し、藩政時代には製塩業の燃料にするため瀬戸内・四国方面へ輸送した。鹿町は海岸にも近く、ここから石炭を運ぶ船は、千石船と呼ばれたという。幕末になると、国内外の蒸気船や軍艦の長崎入港が増え、石炭の需要は一気に高まり、平戸藩では捕鯨と石炭産業が大きな収入源となった。 一方で、キリシタン弾圧を逃れて、五島などから褥崎に移住した信徒も多く、その苦労をしのぶかのように「親は五島に、子は褥崎に、落つる涙は波の上」という民謡が残されている。大正五年(1916)には、信徒念願の褥崎教会が完成した。

長串山つつじまつり
鹿町の町名の由来は、鹿を待って捕まえた「鹿待(ししまち)」から来ているだけあって、内陸部から海へ向かい緑豊かな丘陵地帯が広がっている。中でも北九十九島を一望できる長串山公園からの眺望は、空前絶後の大パノラマ。4月から5月上旬には、昭和四十四年(1969)から栽培されているツツジが見頃を迎える

褥崎教会
江戸時代初期の寛永十四年(1637)に起こった島原の乱で破れ、五島に渡ったキリシタンたちが、さらなる迫害、弾圧を逃れるようにしてこの地に流れ着いた。初めは小さな民家で、ひっそりとミサを行っていたのだろう
小値賀町の東方に位置する野崎島は、江戸時代には平戸藩領で、潜伏キリシタンが住んでいた。慶応元年(1865)に実現した大浦天主堂での信徒発見後には、島民が外国人神父たちと連絡をとり、6人のキリシタンが長崎の大浦天主堂まで洗礼を受けに行く。しかし、喜びもつかの間、藩役人の知るところとなり、キリシタンの島民は小値賀に集められ、拷問にあい改宗させられてしまう。彼らが自由を勝ち取るのは、明治六年(1873)のことであった。 その後、明治四十一年(1908)、煉瓦造りの旧野首教会堂が完成。設計・施工は上五島出身の鉄川与助。現在の旧教会堂は町の所有となり、平成元年(1989)に長崎県指定有形文化財に指定された。

野崎島
キリシタン迫害の悲しい歴史が残る旧平戸藩領、野崎島。明治六年(1873)、キリシタン信仰の自由は得られたものの、信徒たちは貧困で木造の天主堂すら建てることがままならなかった。現存する煉瓦造りの旧野首教会堂も、貧しい信徒たちが私財を投げ打ち建てられた

出土品の中国陶器「華南三彩」
江戸時代に捕鯨で財を成した豪商・小田家の屋敷跡を利用した小値賀町歴史民俗資料館では、石器や土器などの古代の出土品や、遣唐使などに代表される中国との交易をしめす資料、陶磁器などが展示されている