![黒御影石の碑が表す爆心地[原爆落下中心地碑]](images/route_01_title.gif)
原爆落下当時は、地元有力者の別荘と庭があった場所。当初はスレート製煙突の破片に消し炭で「爆心」と書いた標識が立てられていました。


1945年8月9日11時2分。長崎市松山町の上空500mで、
人類史上2番目の原子爆弾が炸裂。
一瞬のうちに廃墟となったこの地も、
半世紀以上の時を経て、美しい公園として整備されています。










![黒御影石の碑が表す爆心地[原爆落下中心地碑]](images/route_01_title.gif)
原爆落下当時は、地元有力者の別荘と庭があった場所。当初はスレート製煙突の破片に消し炭で「爆心」と書いた標識が立てられていました。
![黒御影石の碑が表す爆心地[原爆落下中心地碑]](images/route_01_photo.jpg)
![一人の少女の命を救った防空壕[旧松山町防空壕跡]](images/route_02_title.gif)
原爆落下時は警報解除中だったため、町民のほとんどは被爆。壕で遊んでいた9歳の少女だけが、町内唯一の生存者となりました。
![一人の少女の命を救った防空壕[旧松山町防空壕跡]](images/route_02_photo.jpg)
![世界に向けて平和を発信する公園[平和公園と平和祈念像]](images/route_03_title.gif)
8月9日の平和記念式典が行われる場所。祈念像は長崎出身の彫刻家・北村西望作。右手は原爆の脅威を、左手は平和を表しています。
![世界に向けて平和を発信する公園[平和公園と平和祈念像]](images/route_03_photo.jpg)
![僅かに残った外壁が当時をしのばせる[長崎刑務所浦上刑務支所遺壁]](images/route_04_title.gif)
爆心地から200mの刑務所は瞬時に倒壊。受刑者や未決囚、看守とその家族134人全員が死亡。中国・朝鮮人45人も含まれていました。
![僅かに残った外壁が当時をしのばせる[長崎刑務所浦上刑務支所遺壁]](images/route_04_photo.jpg)
![千羽鶴と佇む永井博士ゆかりの碑も[市立山里小学校(山里国民学校跡)]](images/route_05_title.gif)
被爆により児童1581人のうち1300人、教師28人が亡くなりました。校舎裏手の防空壕は、事前の申し込みで見学も可能です。
![千羽鶴と佇む永井博士ゆかりの碑も[市立山里小学校(山里国民学校跡)]](images/route_05_photo.jpg)
![永井博士が暮らした畳二畳の自宅[如己堂]](images/route_06_title.gif)
被爆しながらも救護活動に奔走した永井隆。2人の子どもと共にここで暮らし、「長崎の鐘」「この子を残して」などを執筆しました。
![永井博士が暮らした畳二畳の自宅[如己堂]](images/route_06_photo.jpg)
![平和を希求し続けた生涯をたどる[永井隆記念館]](images/route_07_title.gif)
博士の遺品や写真、著作などを展示。2階には近所の子どものために開放した「うちらの本箱」の精神を受け継いだ図書館もあります。
![平和を希求し続けた生涯をたどる[永井隆記念館]](images/route_07_photo.jpg)
![朝夕に響いていたアンゼラスの鐘[浦上天主堂鐘楼ドーム]](images/route_08_title.gif)
鐘楼の左塔のドーム部分は、爆風で落下し北側の川底へ崩落。右塔の鐘は瓦礫の中から発掘され、今も変わらぬ音を響かせています。
![朝夕に響いていたアンゼラスの鐘[浦上天主堂鐘楼ドーム]](images/route_08_photo.jpg)
![原爆の脅威を今に伝える聖堂[浦上天主堂]](images/route_09_title.gif)
30年の歳月をかけて建てられた聖堂が、原爆により全壊。1981年の法王ヨハネパウロ2世来日を機に、昔日の面影がよみがえりました。
![原爆の脅威を今に伝える聖堂[浦上天主堂]](images/route_09_photo.jpg)